FRESH +BLOOD
百舌
第1夜 美佳
肩で鎧戸を開けて、入ってきた。
看板にはまだ遠いけれど、お客の切れたお店。鎧戸が開閉するその音は空々しく、やけに大きく響いた。私はカゥンターのなかで磨いていた爪さきを慌てて隠した。
意外な訪問客だった。彼は昨日も通ったかのような慣れた会釈をして、わずかに微笑んで、バァカゥンターの止まり木についた。
隅から二番目のスツール。
そういう席につくときは、端っこからひとつ空けておくものよ。
そうしたら私が座ってあげる。隣に座れるのはあなただけ。私を独占できるのよ。
彼はそう教えたら、次からはきちんとエスコートすることが出来た。
「三年ぶりだっけ。変わらないね」
「それってどういうこと?」
「相変わらずキレイだってこと」
「努力してるもの。それが取り柄だから」
彼は店の調度を値踏みするように視線を走らせた。深海のような青い布クロスを貼ったお店。節の跡のない桜のバァカゥンター。誰も信じていないけれど、一枚だけかけた絵は本物だ。急逝した両親が遺した形見だった。
「いい店だ。初めて来るけれど」
「なにか飲む」
「適当に」
グラスを並べてワインの栓を抜いた。血の色をしたワインを注いでいると、今朝から始まった生理のことが気になった。足が血で張ってる。身体の芯から、すうっと命の抜け殻が滴っている感触がある。それでも笑顔は絶やさない。女であることを諦めたくない。
彼は指先でバァの空席を突ついた。
「距離がさみしい」
カゥンターを出てその席についた。彼が腰に手を回してきて、肌にぴくりとさざなみが立った。いやだ、敏感になってる。いつ席を立って、取り替えようか。
「女をいい気分にさせる気ね」
「誰が仕込んだんだ。きみじゃないか」
「あら結婚が似合わないのは、もとからよ。私に出会う前からよ」
グラスが宙でかちんと鳴った。
「何に乾杯したの」
彼のことをいろいろと思い浮かべた。私の覚えている限り、今日は特別な日ではない。私に逢いに来る理由はないはずだった。
「忘れモノがあってね、きみの。こないだ荷物をまとめていて見つけたんだ」
「あら。全部を整理したとばかり思っていたのに」
彼は懐から小さな小箱を取り出した。
「懐かしいわね、婚約指輪じゃない」
「忘れていくとは思わなかったな」
「そうそう。結婚指輪は海に投げたのよ。冬の寒い朝で、海の色が暗かったわ」
心臓の止まりそうなほど寒い海に、綿を散らしたような雪がしずかに降っていた。砂浜を長いこと歩いていた足はもう感覚がなくて、そこから立ち去りたい思いから、私はそれを投げた。その場所まで歩いた距離を、未練だとは思いたくなかった。
「玲奈はどうしてるの」
親権を渡した娘のことをきく。声の震えが気づかれないか、彼の表情を探った。
「もう二年生さんかな。クリスマスに欲しいものは、って聞いたら、スマホだっていうんだよ」
「おませね」
「きみに似ているよ。彼からのSNSがあるんだっていうのさ」
形のいい口髭をつまんで、軽いため息をついた。彼が時間を持て余している。なにか告げたい事があるには違いなかったが、このスツールにとまらせるほかには、彼の居場所はない。
「まさか次の子ができたというの?」
彼はしばらく黙っていた。小振りの能面のような顔の下に、怒りがよどんでいる。私がよく知っている顔だ。むしろ懐かしささえ覚えた。
「彼女とは別れたんだ。この間ね。荷物をまとめてクニに戻る前に、最後にきみに逢いにきた」
「あら残念ね。わたしに隠れて仲良くしていたのに」
すごい皮肉だ。でもその残酷さを、私だけは彼に与えることができる。彼に女ができたことは、すぐに判っていた。
毎週火曜はきまって帰宅時間が遅くなり、そして優しくなったからだ。「ただの関係だったと判ったよ。ひとりになってからね」
まだ別れて浅そうだ。
「きみは・・・旧姓に戻してはなかったんだね」
話題を変えた。変えてから唇を結び、わたしの瞳を盗んだ。
彼がすっと指先をだして、私のあごを支えた。
「おやすみのキスからまた始めないか」
瞼を閉じて、キスをうける。それも一瞬だけだった。離れたのは私のほうからだ。それだけで彼ならば拒絶がわかるはずだった。
彼は席を立った。清算しようとするのを押しとどめた。彼はにこりと微笑して、軽く目を閉じて、次の瞬間には背を向けて夜の町へ呑まれていった。
ありがとう。最後のキス。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます