流転

百舌

流転

 幻の一杯がある。

 父親の遺した墓を、月命日に掃除に行ったご褒美に食べていた。

 田舎にありながらお洒落な内装のラーメン屋だった。BGMもモダンジャズが流れていて、置いてある本も近代建築の写真集だったし、灰皿も置いていなかった。およそ客層を自ら絞ったようなお店だった。

 そんな場所であったので、女の独り身で椅子に着くことができた。

 その頃の私は離婚調停中だったので、生活リズムが乱れていた。急に広くなったベッドで、朝方まで眠れずにいた。食事を摂ることもよく忘れていて、冷蔵庫にはアルコールしか置いてない。殺風景なものだった。そんな日常だったので、たまにはガツンと美味しいものを食べたいときがあったのだ。

 店主はいつも無愛想で、注文を取るとそのまま麺を茹でて、タレを丼に入れてスープの火加減を見ていた。その工程にはまるで無駄というものがなかった。私はその一連の動作を、演舞の所作のように眺めていた。

「どうぞ」と碗を置き、店主は会釈した。

 剃り上げた頭にバンダナを巻いていた。オリーブドラブ色のエプロンに擦り切れたジーンズ。痩せ形ではあったが、黒Tシャツから剥き出しの腕に鍛え上げられた筋肉の束が、麺の湯切りの際に見えていた。

 私が麺を啜り出すと、彼は背を向けて叉焼の仕込みを点検していた。

 スープは澄んでいて油分控えめだけど、出汁が濃厚だった。細めの麺は素麺のようにキチンと整列して、店主の小技で、正座みたいに折り畳まれてスープの海に沈んでいた。取り立てて具はシンプルで、必要にして充分だった。店にはこのラーメンと叉焼麺の2種しか置いてなかった。この一杯で気持ちまで解れる気分になれたので、いつしか墓参の習慣のようになった。

 背は向けていても、無口な店主はカウンターの私の気配を見逃しはしない。麺が減ってゆく、その間に豆を引きドリッパーをセットする。そして食後のタイミングを見計らって、そっとエスプレッソのカップを置いた。

 指2本で軽く摘める白い小さなカップ。

 その皿に可愛い砂糖が2つのっていた。

 この珈琲は食後にサービスしてくれる一杯だった。  

「建築がお好きなんですね」

 裏手の駐車場に車を停める時に、彼はの日曜大工の道具を持って、裏庭で収納家具の一部らしいものをこしらえていた。

「いえ。時間があるもので。時間さえあれば何でも手で作ってみたいんです」

「このお店も?」

「はい。殆どが手作りですよ。給排水だけは業者にお願いしましたが」

「器用なんですね」

「いえ手間と暇がありますので、つまり工夫と時間さえあれば」

 勘定を済ませて住処に戻る。旦那にかかる手間はなくなったし、暇にもなったけれど、離婚調停という大きな障害が前途を昏くしている。もう相手方という、体温の感じられない呼び方で、あのひとを呼ぶのだけれど、その所在が未だに不明らしい。



「ちゃんと眠れているの? ご飯は出来てる?」

 都会に嫁いで行った妹から心配のこもった電話を受ける。

「大丈夫。少しずつ自分にも、手間暇をかけてあげれるようになったわ」

「睡眠と食事。しっかりしてよ。お願いだから」

 卵を割り、野菜を刻み、肉を炒める。そんなことを苦にならないようになってきた。その頃は眠れない夜にスープを煮込んでいた。部屋着では薄ら寒いキッチンに椅子を置いて、文庫本を読みながらスープを煮詰めていった。もちろん頭に文章は入ってはこなかった。

 それが幾夜か続くと、とてもひとりでは食べられない量ができてしまう。スープジャーに入れて会社の同僚たちとお昼に食べた。

 寂しい女は煮物を作るという惹句があるけれど。スープにするのは栄養効率と日持ちが良いという合理性が勝っていると私的には思う。様々なものが手を掛けられて、陶然と液体になってゆくさまは飽きなかった。

「これとっても美味しい。時間かかってますね」

「時間を無駄にしたくなくて作っているのよ」

 スープジャーが空になっていくのを見て、かえって充足感を覚えた。誰かのために動ける自分にやっと出会えた感触があった。

 離婚調停をお願いしていた家庭裁判所から通知が届いた。嫌な知らせがあるのかもしれない。直ぐに開封をしないで車を走らせ、父の墓前で開いた。

 この場所が拠り所なのかもしれない。妹に電話をして殊更に負担をかけるのは避けたかった。


 あの店は公園の隣にあった。

 小学生の私の手を引いて、父がよく連れて来てくれた。

 横須賀にまで住居を移していた相手方から連絡があったそう、と他人事のように墓前に報告したばかりだった。

 それでも歯車が回り始めているのを感じた。

 焦っては駄目。それはわかっている。

 その場所のいつもの駐車場に乗り入れたが、周囲の様相が変わっていた。今日は誰かに話をしたい気分で、高揚していた私は、場所を間違えたかなと訝しく思った。店主とは、数回の会話を交わしただけなのに。

 いや、間違えてはいない。

 確かにここだった。

 しかしながらそこはカラオケボックスになっていた。しかも新装開店したような様子もない。数年程度の時間経過がその外壁に残ってる。

 車を降りて確かめるのも怖い気がした。

 あの一杯は、あの店主は幻だったのだろうか。

 私は、夢と現実の狭間にでも迷いこんでいたのだろうか。

 童話のように、ふと正気に戻ったら数十年の歳月が経っていたら恐ろしいわね。

 移転したのかどうか、お店の所在を確認することもなく、帰途についた。ハンドルを操っては疑問符が尽きなかった。

 夢であるはずがない。夢には味覚はないはず。

 夜半に煮えたつスープの灰汁を取りながら、あの味を思い出したものだ。なおさら、なぜ。

 いまでもあの店主の一杯を思う。

 








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流転 百舌 @mozu75ts

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