少年夢路

増田朋美

少年夢路

暑い日であった。本格的に夏がやってきたということなのだ。それにしても暑い日であった。多分きっと百葉箱があれば、すごい温度を記録してしまうだろうなと思われるほどであった。

その日、杉ちゃんを含め製鉄所の利用者たちは、それぞれ勉強したり、仕事をしたりしていた。こう暑いと、なかなか外出する気にもなれない。冷房の効いた涼しい部屋で、なにかしているのに限られる。そんななか、製鉄所の玄関先で、こんにちはという声が聞こえてきた。誰だろうと思って、製鉄所の利用者が応答すると、

「いやあ、全く暑いですね。今年は雨もよく降りましたけど、こんなに暑いとは、思わなかったですよ。」

と、言いながら夏用の背広を身にまとった、小久保哲哉さんが製鉄所にやってきた。

「あ、小久保さん、一体どうしたんですか?」

利用者はびっくりしてそう言うと、

「実はですね、今回、久保彦乃さんの弁護を引き受けることになりましたので、ちょっと、彼女のことでお伺いしたいことがあるんです。」

と、小久保さんは言った。

「そうですか。久保彦乃さんと言いますと、あの子供を虐待したことで、捕まった女性ですね。」

「ええ、現在、彼女の供述をもとに、裁判の準備を進めているんですが、そのことで、ちょっと、彼女と関わりのある方にお話を伺いたいと思いましてね。」

利用者がそう言うと、小久保さんは言った。

「そうですか。あの女性の弁護ですか。なんだかあれだけひどいことしたのに、弁護士の方が着いて、彼女を助けようとするなんて、皮肉ですね。それにしても、こんな暑い中で、弁護活動なんて、大変ですね。」

「ええ。犯罪というものはいつの季節に起きても不思議はありません。ですから、弁護活動も同じなんです。」

小久保さんはにこやかに言った。

「まあ、とりあえず中に入ってください。こんな暑いときですから、お水を持っていきます。」

と、利用者はそう言って、小久保さんを中に招き入れた。

「とりあえず、あたしたちはあまり彼のことを知らなかったので、杉ちゃんか水穂さんに話を聞いてください。」

「どうもありがとうございます。」

利用者は、小久保さんを四畳半に連れて行った。

「水穂さん、小久保さんが来ましたよ。なんでも、久保彦乃さんの弁護をするそうで、それで聞きたいことがあるそうです。」

利用者は、四畳半のふすまを開けて、おじゃま虫は消えますと言って、部屋を出た。水穂さんは布団から起きようとするが、

「暑いですから、寝たままでも構いません。実は、久保彦乃さんの弁護を頼まれました。現在、彼女の精神鑑定を進めています。彼女の供述の確認をするために今日はこちらに伺いました。」

と、小久保さんは言って、水穂さんの枕元に座った。

「そうなんだね。それは、国選でお願いされたの?」

縫い物をしていた杉ちゃんがそうきくと、

「いえ、違います。久保彦乃さんの別れたご主人が、どうしても刑を軽くしてほしいということで、私のところへお願いに来ました。国選で選んだ弁護士がいたそうですが、彼女は訳のわからないことばかり口にして仕方ないので、全く相手にできなかったそうです。」

と、小久保さんは言った。

「はあ、演技してんのかなあ。彼女。どっかの学校へ侵入した死刑囚みたいにな。それで、刑を軽くしてもらって、またこっちへ戻ろうってか?」

杉ちゃんがそう言うと、

「いや、それはどうでしょうかね。僕は何度も彼女に接見しましたが、そういうことはなさそうです。それより、今回お伺いしたいことは、彦乃さんが、逮捕される前に、精神疾患のような症状を見せたかどうか、です。どうでしょう、そうらしいなと思われる発言をしたことはありましたか?」

と、小久保さんはメモ用紙を出しながら聞いた。

「そうだねえ。病気と思わせられる感じはなかったと思うけど。」

と、杉ちゃんは言った。

「ただ、間違いなく、息子の夢路くんのことを、殴ったり叩いたりしていることは確実で、夢路くんの体には、たくさん傷や痣がありました。見かけでは、普通の女性を装っていたんだと思いますが、間違いなく、彼のことを、殴ったりしていたんだと思います。」

と、水穂さんもそれに付け加える。

「でも、小久保さんには、彼女はどんな供述をしているんでしょうか?虐待をしていたことを、素直に認めていますか?」

「いえ、それはありません。夢路くんを育てるためには、仕方なかった、躾だと主張しています。」

小久保さんはとりあえず答えた。

「しつけか。それって、立派ないいわけだよな。」

「そうですね。ですが、彦乃さんの主張によりますと、夢路くんが、いくら口で言い聞かせても覚えないので、そうするしか無いと思っていたそうです。現に、夢路くんを保育園に預けようと思った事があったそうですが、夢路くんが他の園児と不仲なせいで、保育園を追い出されています。そういうところから、彦乃さんは夢路くんを育てるのには、口では言えないと思ったのだそうです。」

小久保さんはすぐに言った。

「はああ、、、。そうなんだ。それは初めて聞いたよ。でも、でもねえ、夢路くんが、たとえそういう事があったとしてもだよ、それは、車椅子のやつに無理やり立たせようとさせているのとおんなじじゃないのかな。夢路くんが、周りの子とうまくやれないんだったら、じゃあこっちがどうするのか、考えるのが普通じゃないのか?」

杉ちゃんは、腕組みをしていった。

「そうですね。トーマス・エジソンとか、レオナルド・ダビンチなども発達障害があったと言われていますが、それは親御さんや肉親が、彼らは普通のこどもではないと見切りをつけて、特別な教育を受けさせたことで成功させています。それをしないというのは、やっぱり、彦乃さんが母親として問題があったんだと思います。」

水穂さんもそう言うと、

「まあ、とりあえず、弁護する方としては、事実を中心に考えていきましょう。いずれにしても、久保夢路くんは、保育園で問題を起こしていたので、彦乃さんは、体罰を加えるしか無いと、考えていた。それは、事実なので、そこが今回の事件のポイントになりそうですね。」

と、小久保さんは言った。

「まあ、ねえ。結論から言えば、彼女は、そうするしか思いつかなかったということだ。でもそれは逆に、夢路くんを人間に育てるために必要なことを怠ったということにならないかな。それしか思いつかないってさ、共食いする動物じゃないんだから。」

「例えば、夢路くんが、普通の子ではないとわかったら、どこかの育児サークルに入ってみるとか、障害のある子供さんのお母さんを探すとか、そういうことをするのが当たり前だと思うんです。それも、彦乃さんはしなかったということなら、それは、やっぱり、本来するべきことをしなかったということになりますよね、、、。ですが、彼女はそれをしなかったというよりできなかったということになりますよね。」

杉ちゃんがそう言うと、水穂さんが、杉ちゃんに言った。

「だからそれがどうしたの?」

杉ちゃんが言うと、

「いえ、女性が一人で障害のある子供さんを育てていくというのは、大変すぎると言いますか、体罰を加えるしか無いと思い込んでも仕方ないのかなと。」

と、水穂さんは言った。

「馬鹿!優しくしすぎてどうするの?今回は、彦乃さんが、やるべきことをやらなかったことで、裁判を受けてるんだから、それでいいの。やるべきことをしなかった。それは明らかに彦乃さんの悪事だぜ。いいか、人間に出来ることは、事実に対してどう動くかを考えることだけだ。それを彼女はしなかった。だから、今回、裁判でそれに対して処罰がくだされるんだ。水穂さんが言っていることは、夢路くんが悪いということになっちまうよ。そうしたら、夢路くんは何のために生まれてきたのかってことも考えなくちゃいけなくなっちまうぜ。」

杉ちゃんは水穂さんに言った。小久保さんは、そうですねえと水穂さんに話を合わせた。

「そうなんです。だから僕達は、彼女が少しでも軽い罰で済んでくれるように持っていかなければなりません。ですから、彼女に精神鑑定とかそういう話が出ているんです。彼女は、もしかしたら、育児ノイローゼのようなものを持っていて、それで夢路くんを虐待するようになったのではないかと。それで今回、お二人に、彦乃さんが、おかしくなっていたような素振りを見せなかったか、聞きに来たわけでしてねえ。」

「わかりました、わかりました。少なくとも僕から見たら、彦乃さんは、落ち込んでいるとか、育児について悩んでいるとか、そんなことはなんにもありませんでした。それよりも、夢路くんが邪魔でしょうがないという態度だった。まるで、育児が面倒になったとか、そういう感じだった。だったら、僕は、子供を作るべきじゃなかったんじゃないかって言ってやりたいくらいだったよ。これでいいかな?」

杉ちゃんがそう答えると、小久保さんは、手帳に杉ちゃんの言葉をメモした。

「もしかしたら、彦乃さんは、親御さんやその他の人に、優しくしてもらったとか、そんな経験がなかったのかもしれません。それで、彼女は、育児が面倒だと感じてしまったのかもしれない。」

「そうだけど!」

杉ちゃんは水穂さんに言った。

「とにかくね、今回の事件は、夢路くんが悪いなんて言うことはこれっぽっちも無いんだぜ。悪いのは、あの彦乃とかいう女だ。あの女が、夢路くんのことを邪魔だと思ってしまったから悪いんだ。だから、夢路くんが原因だったとか、そういうことは、何も無いの!」

「そうですね。杉ちゃんの言うこともわかりますが、今回弁護するのは、彦乃さんの方でして、夢路くんの方ではありませんので、そこは気をつけないと。」

小久保さんは杉ちゃんを牽制するように言った。

「うーん。そうだねえ。」

杉ちゃんは頭をかじった。

「なんだか、虚しいよ。彦乃とかいう女はそうやって弁護士がついて、罰を少しでも軽くするように持っていってくれるやつが居るんだからよ。でも、夢路くんのほうは、まだ五年しか生きていないのに、こんな大きな傷を背負っていかなければならないんだぜ。そっちの方に対して、なにかしてやれないものだろうかな?日本にはそういう制度も無いもんかねえ。」

「そうですか。夢路くんはどうしているのでしょうか?」

小久保さんがそう言うと、

「夢路くんがお前さんのいうことを聞いたら、真っ赤になって怒ると思うぜ。とりあえず、養護施設にいたんだけどね、あまりにも問題行動が多すぎるって言うんで、今、里親のところにいます。時々竹村さんが、彼のもとに行っているみたいですが。ですが、困るだろうねえ。自分のことを邪魔だと、お母ちゃんが思っていたとなると。もう大人なんて信じてやれないと心のそこから思うだろうねえ。その責任は誰がとるの?久保彦乃さんが、夢路くんに土下座でもして謝ってくれたら、いいけれど、そんなことするでしょうか?挙句の果てに、刑を軽くしてくれるように僕達に頼むなんて、夢路くんにとっては、虫が良すぎるしか思えないだろ。」

杉ちゃんがでかい声で言った。

「まあ、僕が言いたいのは、彼に対して、お前さんは悪くないと言ってくれるような存在が一人もいないってことだ。それに、彼にとって、暴力を振るっていた悪役が、そうやって罰を軽くしてもらおうとしているなんて、夢路くんは、許さないと思うよ。」

ちょうどそのとき、製鉄所に設置されていた柱時計が、二回なった。それと同時に、インターフォンのない製鉄所の玄関が、ガラッと開いた。

「こんにちは、竹村です。クリスタルボウルのセッションに来ました。」

「あ、竹村さんだ。」

杉ちゃんと水穂さんは顔を見合わせた。

「こんにちは、上がらせていただきますよ。今日の二時に予約入っていましたよねえ。」

と、竹村優紀さんは言って、クリスタルボウルを七個乗せた台車を押しながら、四畳半にやってきた。クリスタルボウルというものは、種類にもよるが、大変重たいので、台車に乗せないと、持ち運びが大変なのである。それと同時に、バタバタと小さい足音も聞こえてきた。

「あれ、誰か助手でも居るのかな?」

と、杉ちゃんが言うと、

「こんにちは!」

にこやかに笑って、入ってきたのは、夢路くんだった。

「本当は、里親の方のもとに居るんですが、何でも今日は用事があるそうで、僕のところで預かってくれと申し入れがあったんです。」

と、竹村さんは状況を説明するが、それはなんとなく誤報だと思った。用事があるそうでというより、夢路くんが里親さんの家庭に馴染めず、竹村さんのもとにいたいと言い出したのに間違いなかった。それは、大変な心の傷だろうなと杉ちゃんも小久保さんも思った。

「それでは、今日は、四人の方にクリスタルボウルの演奏を聞いていただきます。今日は、小さなクライエントさんも居るようなので、できるだけ明るい曲を演奏するようにいたしますよ。」

と、竹村さんはクリスタルボウルを手早く縁側に置き、マレットを取った。小さなクライエントさんという言い方を使ったところから、夢路くんもそのクライエントさんの中に含まれているのに間違いなかった。

「じゃあ、演奏を始めます。45分の短い時間ですが、クリスタルボウルの、幻想世界をお楽しみください。寝たままでも座ったままでもいいです。では、行きますよ。」

と、竹村さんはクリスタルボウルの縁を叩いたり、マレットで擦ったりして音を立て始めた。ゴーン、ガーン、ギーン、まるでお寺の鐘に、ちょっと脚色したような、そんな感じの音であった。その音は、ある人には、強烈な音にも感じられ、考えを思い巡らすことを止めてしまう作用があった。そうなると、自分の内面の音に、嫌でも耳を傾けなければならなくなる。それを、感動的な癒やしとして提供することが、クリスタルボウルという楽器の役目だと竹村さんが以前話していた事がある。

ゴーン、ガーン、ギーン、素敵な音だ。普通に座っていた小久保さんも、ちょっと思考が停止してしまうほど、素敵な音だった。

「ありがとうございます。それでは、本日の演奏はここで終了です。皆さんありがとうございました。」

竹村さんはそう言ってマレットを置いた。

杉ちゃんが竹村さんに、これをお収めくださいと封筒を渡すと、竹村さんはありがとうと言って受け取った。杉ちゃんが、お茶を入れるからちょっとまってというと、竹村さんはわかりましたといった。杉ちゃんはお茶を入れますと言って、四畳半を出ていった。

「いやあ、すごいですねえ。流石に、僕もちょっと、思考することができなくなりましたよ。クリスタルボウルというのは、すごい力ですね。」

小久保さんが感心したようにそう言うと、

「ええ、最近の方は、思考しすぎてしまうようですから、それを辞めてもらうことが癒やしになることもあるようです。それを辞めて、自分だけの時間。こういう時間を持ってもらえたらいいなと思って、僕達は活動しているわけで。」

と、竹村さんは答えた。

「そうですか。どんなクライエントさんのもとに、行っているんですか?やっぱり心とか体とか病んでいる方が多いんですか?」

小久保さんがそうきくと、

「ええ。もちろん、うつ病とか、統合失調症とか、そういうふうに診断名がついている方もいますが、中にはそうではない方もいます。病気の方は、自分の体の重みを感じるための時間だと言いますし、自分が生きていることを実感するのだそうです。まあ確かに、クリスタルボウルというのは単なる楽器に過ぎず、それが病気を治すというわけでもありませんが、多くの方はそれを求めて、演奏を聞きに来てくださいます。」

と、竹村さんは答えた。小久保さんは竹村さんの隣でちょこんと座り込んでいる夢路くんの顔を見て、あなたのお母さんの弁護をしていると言うのは、辞めたほうがいいなと思った。多分きっと、夢路くんは、杉ちゃんの言う通り、お母さんが捕まってしまってえらく傷ついているに違いないから。

「でも、素敵ですね。人の心に直接届く音楽を聞かせてあげられるんですから、竹村さんの楽器は素敵だと思います。」

と、水穂さんが言った。竹村さんはにこやかに笑って、

「ええ、僕達は、人のために生きている人間として、まずはじめに、人間を癒やしてあげている人間が居ることも知ってほしいと思っています。そういう人間も居るんだって、人は悪いことばっかりする人間ばかりじゃないんだってことを、気がついてもらいたいと思うんですね。」

というのだった。それはきっと、夢路くんのためにそう言ってあげているんだろうなと思った。

「そうですねえ、、、。世の中には、それが出来る方もいる、ですか。竹村さんのような、人のことを考えてあげられる人間がもう少し増えてもらいたいものですけれども。それは、無理なんですかな。」

小久保さんは、接見した久保彦乃さんのことを思い出しながら言った。確かに、彼女すべてが悪かったわけでは無いのかもしれないが、彼女がもう少し、夢路くんと接することに、喜びを持ってくれたら、こんな事件はおきなかったのではないかと思うのだ。

「きっと、彦乃さんも自分の体の重さを感じてくれるようになったら、夢路くんのことも考えられるようになると思いますよ。彼女は、それすらかじる余裕もなかったんでしょう。それが、今の人なんじゃないでしょうか。」

「そうですね。水穂さんいいこと言いますね。僕達は、そのお手伝いをさせていただけたらなと思っていますよ。」

水穂さんと竹村さんが相次いでそう言うと、小久保さんは、そうだなあと思った。そして、やっぱり、久保彦乃さんは、法律で罰せられようと、刑を軽くされようとも、夢路くんのことを、面倒くさいとしか見られなかったのだと改めて感じ取った。

「みんなお茶だよ!」

杉ちゃんの声がした。なんだかみんなでお茶できるだけでも幸せなんだなと、小久保さんも、水穂さんも思ったようだ。少年夢路くんは、大人たちがこう話しているのを不思議そうに聞いていた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

少年夢路 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る