『普通』の社会人

 あの最高の遊園地の日から時間が過ぎ、翔平と尚子は大学を卒業し、翔平は社会人に、尚子は大学院に進学した。


 実はあの最高の遊園地の後から翔平と財前はよく出かけるようになった。なぜなら、彼らにとって大学生活最初で最後の夏であり、秋であり、冬だったから。


 そして、その遊園地の日から尚子は本当の財前尚子を見せてくれるようになった。翔平はそれが本当に嬉しかった。


 そんなこんなで楽しくデートを積み重ねているとよく巷で言われている「付き合い始めて、三か月で別れる」を余裕で突破した。


 後、喧嘩もしたことがなかった。その理由は、翔平は財前の時間軸が好きだったから。


 翔平は尚子という存在を通して、本当の自分と対話しているような感覚になっていて、その『普通じゃない』自分も悪くないと理解することができていた。


 つまり、翔平は尚子のおかげで自分自身が好きになれたと感じていたのだ。


 そして、それは尚子も同じだった。


 だが、翔平が社会人になってからは以前のように会えなかった。何せ、尚子は愛知県の大学院に進学をし、翔平は千葉県で就職をしたからだ。


 彼らにとっては付き合い始めてから初めての遠距離恋愛。


 でも、自然と不安はなかった。翔平は『そんな『距離』なんかで俺たちの関係が壊れるはずがない』とまで考えていた。


 しかし、実際の問題は『距離』だけではなかった。いや、これでは、語弊がある。正確に言うと『新しい環境』に良い意味でも、悪い意味でも飛び込んだことが影響している。


「ごめん。今日疲れてるから、電話出来ないわ」


 最初は研修やなんやらで『まるで学校にいるみたいだな』と翔平は思っていたが、実際に配属先が決まったら、思った以上に何も出来ない自分がそこにはいた。


 聞きたい事が多すぎて、自分の頭でまとめられない。


 中学校ぶりに分からないことが分からないという状態に毎日のようになっていた。


「聞く前に自分なりに考えた?」


 よく先輩社員や上司に言われるこの言葉。


 心の中で、『公式を教えてくれていないのに、数学の問題を解けって言ってるもんじゃないか』と考えては、自分の心の奥底にその言葉を無理矢理溶かして、「すみません」と言うしかなかった。


 毎日が「すみません」で埋められている状態じゃ、尚子の事を考える余裕は当然なくなった。


 だって、翔平は悪い意味で『普通じゃない』から。


「尚子、ごめん」


 翔平は翔平しかいない部屋でボソッとそう言い、ラインを閉じた。まどろみの中、ベットが少しだけ揺れた気がした。


 朝起きて、いつも通りラインを確認すると、『うん。分かった。おやすみ』と書いてあった。


『このままじゃ、俺嫌われるな』


 翔平はそう思っていたが、日々訪れる仕事のせいでそれどころじゃなかった。


 そんな日々を何とか過ごして2月になった。


 だが、社会人になろうが、学生だろうが、2月の冬の朝ほど起きるのが億劫なことはない。


 今日は平日。いつも通り仕事に行かなければならない日なのになかなか、ベットから出られない。


『これは果たして、寒さによるものなのかな? それとも……』


 翔平はそんなことを考えながら、尚子にいつも通りの返信した。


『本当にごめん』


 翔平と尚子が最後に会ったのは、クリスマスがあった週の27日と28日だった。


 本当はクリスマスに会いたかったのだが、残念ながら翔平の会社は営業日な上に仕事が立て込んでいて、その日に有給は取れなかった。


 だから、代わりとしてその週末にデートをすることにした。


 有名なアニメ映画作品をモデルにした家がある公園でデートをして、久々にまったりした日を過ごせた。


 でも、そこから約二か月全く会えてない。実は尚子も大学院の研究やらで忙しくて、全く予定が合わなかった。


 ラインを返すと隣の部屋でラインの音が聞こえた。


 翔平は勤務している会社から家賃補助があるということで思い切って、1LDKの部屋で生活することに決めた。


 だが、大学4年間で1Kに慣れてしまっているので、一部屋はほとんど使っておらず、物置きと化していた。


 だから、おかしいのだ。


 翔平の家には翔平が大学時代になけなしのお金で買ったスマホ一台しかない。


 そのスマホは翔平の手元にある。


 加えて、浮気とかもしたことないし、前日に飲み会とかあったわけでもなく、いつものように残業を2時間ほどして、シラフの状態で帰宅していた。


 だから、この部屋に入ることが出来るのは、泥棒か合鍵を持っている歩くのが遅い大切な恋人だけだ。


 少しのドキドキを感じながら、寝室からでて、物置きに向かった。


「おはよう。顔疲れてるね」


 俺は何も言えなかった。


 なぜなら、その物置きとかした部屋は綺麗に掃除されていて、そこに翔平の大切な人が目の前にいたからだ。


 翔平はこの二か月感じることがなかった心地いい時間軸に強制的に入れられたような感じがした。


 言葉を出す前に翔平は自然と尚子にハグをしていた。


「…………なんで、いるの?」


 翔平は抱きついていた手を離して、尚子に聞いた。


 すると、尚子は怒った顔をして、こう言った。


「君が変だったから。」


「へ?」


「何かラインの返しも淡白だったし、それに何かそのラインからでもいつも通りじゃないなっていうのは感じていたのです」


「なら、一言言ってくれても……」


「それじゃ『普通』じゃない? 折角ならサプライズしたくて』


 翔平は嬉しくて、声が出てこなかった。


 だが、その代わりに涙が出てきた。


「翔平君。よく頑張ったね。私達にとって『普通』は窮屈なのに毎日よくやってるよ。だから、そんなに思い詰めないで」


 上司や先輩社員からの言葉とは違い、尚子の言葉からは暖かさを感じた。


「いつでも、どんな時も私は君の側にいるから」


 まだ朝の6時半なのに切ない恋愛映画を見た後のように涙が止まらなかった。


「……落ち着いた?」


「うん、ありがとう。でも、尚子がいるとは思わなかったよ」


「実は大学院は今日からお休みなの。だから、私がいなくて寂しそうな翔平君に最高のバレンタインとして私が来たのよ」


 尚子は少し伸びた髪をなびかせながらそう言った。


 翔平は『この人、よく自分でこんなこと言えるな』と思ったが、二ヶ月ぶりの本当の尚子に会えて、安心感を覚えていた。


『甘いチョコではなく『普通じゃない』彼女が必要だったんだ』と目の前にいる尚子を見ながら、翔平は思った。


 すると、先程なんとか落ち着かせた涙がまた出てきてしまった。


「翔平君、泣きすぎだよ。そんなに会いたかったの? とりあえず、朝食はスクランブルエッグを作ったから……って、うわあ」


 翔平は尚子が話しているのを遮り、彼女の時間軸をもっと感じるためにハグをした。


「来てくれてありがとう」


 これは俺の本当の心の声。


 毎日、嘘の「すみません」を積み重ねていたから、心は死んでしまったと思っていた。


 いや、多分、本当に死んでいたのだろう。


 でも、尚子という存在が翔平の心に止まっていた血を流し始めてくれたのだ。


「……私達にとっては『普通』になるのは難しい。でも、会社とかの周り世界は『普通』を求めてくるから嫌になっちゃうよね」


 尚子からの言葉は本当に温かい。


「翔平君はよく頑張ってる。だから、ご褒美にもならないかもだけど、私が『普通じゃない』時間を君にあげるね」


 俺の涙は冷たかったが、温かった。


 矛盾してるが、これが真実だった。


「でも、尚子はやっぱり普通じゃないよ。おかしいと思ったからって休み始まりの日に高速バスで来るなんて……」


「でも、そんな私が好きなんでしょ?」


 翔平はこの瞬間、彼女には歩くスピード以外では、一生勝てないと思った。


「結婚して下さい」


 翔平はふと自分の心が思ったことを口に出してしまっていた。

 

『でも、二度あることが三度あろうが、三度目の正直だろうが関係ない。これが俺の本当の気持ちだ』


 翔平はつい出してしまった言葉に後悔は全く無かった。なぜなら、翔平は尚子と一緒に過ごして、生きていきたいと感じていたからだ。


「やっぱり、翔平君は普通じゃないね」


 次は尚子が涙を流し始めた。


 でも、翔平にとって、今まで一番綺麗な笑顔をしていた。


 翔平はその笑顔を見て尚子となら、絶対に幸せになれると確信した。

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歩くのが遅い彼女 Mostazin @Mostazin

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