第346話 京・望月楼―2

 由利鎌之助は、望月楼隠し部屋の柱に背をもたれかけた霧隠才蔵の姿を見て、

「これは、霧隠どの!」

 と、驚きの声を漏らした。

 鎌之助の声に土屋重蔵が跳ね起きた。


 霧隠才蔵が半眼のまま身じろぎもせず、くぐもるような声音を発した。

「聞かれよ。佐助はすでに信濃へと出立した。火草どのも一緒である」

 重蔵が寝ぼけ眼を見開いた。

「おおっ、ありがたや。火草どのはご無事であられたか」

 薄暗い隠し部屋の中で、才蔵の低い声が陰鬱に響く。

「なれど、火草どのは雑兵どもの刃にかかり、左腕を失くされておった。今頃、佐助とともに、すでに鳥居峠の手前あたりに差し掛かっておるであろう」


 しばし沈黙の時間が流れた。

 才蔵が鎌之助の左脇に置かれた陣羽織の包みに目をとめた。その表面にうっすらと血の沁みがひろがっている。

 鎌之助が包みを膝の上に据え、沈痛な面持ちで才蔵に告げた。

「源次郎さまの御首級みしるしにござる。われら両名もこれから信濃へと向かい、上田太郎山の佐江姫さまの墓に御首級を……」

 才蔵が陣羽織の包みに掌を合わせた。

「左様か。戦いが終わった後、徳川の陣からは、真田こそ日ノ本一の兵、敵ながら天晴れという声が湧き起こったとか。もってめいすべしと心得る」


 再び沈黙の時が流れた。

 その静寂を土屋重蔵が破った。

「して、才蔵どのは、これからどうなされるのか」

「おうっ、それよ。爾後じごは忌々しいことに徳川の天下となろう。わしは、明石掃部頭かもんのかみさまを奉じて、長崎からポルトガル船にて暹羅シャムの国に渡海しようと考えておる。出航はひと月後のことになる」

 鎌之助がしみじみとした声を出した。

「それはまた……遠い異国にございまするな。では、これが今生こんじょうの別れ。まっこと、さびしいことにござる」

「うむ。さらばである。それから念のため伝えておくが、佐助と火草どのは、太郎山にて佐江どのの墓前に幸村どのの形見の品をそなえた後、戸隠とがくしに向かうと言うておった。存じておるとは思うが、佐助と火草どのの生まれ在所は戸隠村じゃ。そこで、おぬしらが訊ねてくるのを待っていようぞ」


 才蔵からの念入りな言葉に、鎌之助と重蔵は思わず互いの顔を見合わせた。

 常に冷ややかな眼眸を投げかけてくる、この狷介けんかいな伊賀者に似つかわしくない懇切さに、二人は驚きの念を隠せなかった。

 そして、才蔵はさらに驚くべき言葉を連ねた。

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