第339話 千代乃と佐助と才蔵―2

 彦左衛門がしてやられたのを見て、旗本衆の一人が抜刀し、斬りかかってきたそのとき――。


 黒い速影が奔ったかと思うや、白刃をひらめかせた男は、転瞬、血雨のもとに斃れ伏した。

「なにくそっ!」

 残りの旗本衆が一斉に太刀を鞘走らせ、斬撃の態勢に入ったが、ある者は袈裟懸けに斬られ、ある者は胴を薙ぎ払われ、ある者は脳天を撃ち破られた。

 速影は、武官に扮した霧隠才蔵であった。


 事の成り行きに驚愕した白髪頭の男が、おののきながらも居丈高に怒鳴り声をあげた。

「わしは天下人、家康であるぞ。ええいっ、下がりおれ」

 すると、御簾に覆われた御所車の中から、息をのむほど凄艶な一人の女官が現れ、男に向かって静かに口を開いた。

「家康どのとやらに訊ねる。そなた、まことに大御所家康どのかえ」

 御所車の中にいたのは、女官千代月こと、幸村の母千代乃であった。


 女官のあまりの美しさに、家康と名乗った男は、一瞬ポカンと口を開けた。

 瞬後、われに返った男が横柄な口調で応える。

「おう、われこそさきの征夷大将軍、家康なり。何故に疑う」

 この返答に、千代乃は婉然と微笑み、

「ならばよい。佐助どの、お命を申し受けよ」

 狩衣姿の牛童は、佐助だったのである。


「今こそ、佐江姫さまの仇を討つ!家康どの、お覚悟あれ」

 直後、佐助は宙に飛び、うしろ腰の脇差を一閃させた。

 次ぎの瞬間、男の首は血飛沫とともに噴き上がり、ひと筋の赤いみおを曳いて、地に転がり落ちた。

 その脇差が幸村から拝領した貞宗であることはいうまでもない。


 事の一部始終を見定めた千代乃は、御所車の中に姿を隠し、外の者に御簾越しに声をかけた。

「才蔵どの、佐助どの。ようやった。見事である。これにて。九度山で無念の思いを残して逝ったわが夫、昌幸どのも成仏できよう。金も銀も大儀であった」

 その声に、御所車の脇に控えていた二人の官女が、うやうやしく頭を下げた。

 袿袴姿の両名は、千代乃配下のくノ一姉妹、金猫と銀猫であった。この二人が京都竹屋町で女郎屋を営み、そこが真田の忍び宿になっていることは、すでに述べたとおりである。


 佐助が大牛の赤い引き綱を手に取り、才蔵はひらりと白馬に跨った。御所車は何事もなかったかのように、車輪の音をきしませながら、再びゆっくりと動きはじめた。






 

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