第337話 ヒノイチ!―4

 幸村の白刃が一閃し、家康の白髪首が地に転がった。

 しかしながら、どういうわけか、そのとき幸村は無言であった。

 何も言わず、血刀をさげたまま、天を仰いでただ屹立しているのである。


 幸村の代わりに、望月六郎があらん限りの声を張りあげた。 

「大御所を討ち取ったり!」

 根津甚八が幸村と同じ空を見上げて叫んだ。

「佐江姫さま、ご覧になられまいたか」

 佐江の従弟・穴山小介が泣き声で絶叫した。

「姉さまのご無念、源次郎さまが見事晴らしましたぞ」

 駆けつけてきた火草が天上に呼びかけた。

「佐江さま、姫さま。源次郎さまはついに日ノ本一のもののふになられまいた」


 由利鎌之助が槍を天にかざして雄叫びをあげた。

「ヒノイチ!」

 すると期せずして全員が繰り返し咆哮した。

「ヒノイチ!」

「ヒノイチ!」

 しかしながら、家康を討ち取ったものの、このとき既に真田軍ぱ潰滅状態であった。幸村の周りには50名ほどの兵しか残っていなかったのである。


 丁度その頃――。

 阿倍野あべの村の南の野に、蒼褪めた顔色をして、馬を駆る老翁の姿があった。

 海老茶の羽織に、煤竹すすたけ色の帷子かたびらを着て、草履を履いている。身なりこそ平凡な好々爺こうこうや風であるが、太鼓腹の突き出た風体は家康と瓜二つ。火草は本陣で三人の家康を見たというが、これぞ残り一人の家康であった。 

 否、その乗馬の巧みさから見て、この人物こそがまさしく家康本人そのものかとも思える。しかも、その馬の周りは、五人の騎馬武者が取り囲むように付き従っているのだ。そのうちの一人が、槍奉行の大久保彦左衛門であった。


 白髪頭の老人が、馬を駆りながらわめいた。

彦左ひこざ、もう逃げきれぬ。もういかぬわ」

 彦左衛門が相手にせず、さらに手綱をあおると、

「わしはもう死ぬ。真田に首をとられるより、ここで死ぬ。そなた介錯せよ」

 と、泣き顔で弱音を吐いた。


 この老人は真田隊の猛攻に身の毛がよだつほど怖れおののき、発狂の兆しすら見せていた。恐怖のあまり、すでに鞍上で糞尿を垂れ流していた。これは、三方ヶ原で武田信玄に惨敗し、命からがら浜松城に逃げ帰ったとき以来のことであった。

 またしても老人がわめく。

「わしは死ぬ。いっそ腹を切る。もう死にたい」

 彦左衛門はアホらしくなって相手にしない。

 そのとき、頭上で鷹らしきき声がした。

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