第335話 ヒノイチ!―2

 家康の旗本隊にとって、それは考えられぬことであった。

 わずか3千余の兵しかいない真田軍に、松平忠直率いる1万3千余の軍勢が打ち破られたのである。


 このとき、旗本の井伊直勝の脳裏には、

「そんなバカな!こんなことは、到底あり得ぬ。悪夢じゃ。これは悪い夢に相違ない」

 という思いがよぎったが、それでも目の前には味方が槍で突かれ、刀で斬られ、そこかしこで血飛沫をあげているのだ。まさに血ふみどろの壮絶な白兵戦であった。


 直勝は叫んだ。

「殿を守れ!馬印を守れ!」

 しかし、その叫び声は戦場の怒号に搔き消された。

 もはや全員が泥と汗と血にまみれ、互いの顔も見分けがたい大混戦、大乱戦となっていた。

 その命のやり取りをする阿鼻地獄の中で、真田隊は同士討ちを避けるためか、不思議な合言葉を発しながら戦っていた。

「ヒノ!」

「イチ!」

「ヒノ!」

「イチ!」

 井伊直勝は「なんじゃ、どんな意味があるのか、あの合言葉は」と思いつつ、「殿を守れ!」と連呼しつつ、必死で家康のそば近くへ駆けつけようとした。


 そのとき――。

 突然、一発の砲声が響き、「ー厭離穢土欣求浄土」の旗印が倒れた。

 直勝は驚愕の目を見はった。なんと、目の前で家康が額から血を流してたおれ伏したのである。

「殿!」

 直勝が悲痛な叫びをあげたとき、右腕を刀で貫かれ、さらに兜の上から槍でガツンと痛打されてそのまま気を失った。


 一方、家康の死体のそばでは、短筒を持った火草が手招きをしながら叫ぶ。

「源次郎さま、こちらへ!急がれよ!」

 幸村が急ぎ駆けつけると、火草の足元に、口髭を生やした恰幅かっぷくのいい老人が顔を血に染めて横たわっていた。

「大御所なるか」

 幸村の問いに、

「それが……影武者かも分かりませぬ」

 火草が本陣の混乱に乗じて、家康に近づいたとき、三人の家康らしき人物がいたという。火草はその中の一人に狙いをつけて、短筒で撃ったのだ。


 望月六郎が、

「あっ、あれをご覧あれ」

 と驚いた声をあげ、南の方角を指さした。

 幸村がそちらを見遣ると、金扇の大馬印が真昼の陽光にきらめきながら遠去かっていくではないか。

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