第320話 裸城―1

 大坂方が和睦を進めた裏には、前にも述べたとおり、

「大御所家康は高齢。余命いくばくもあるまい」

 という打算的な読みもあった。

 つまり、和睦は家康が死ぬまでの時間稼ぎ――あと数年の和平を保てば、家康は儚くなり、天下は再び右大臣家(豊臣家)に転がり込んでくるであろう。

 

 実際、この読みは当たっていた。

 翌年に勃発した「大坂夏の陣」で、豊臣家を滅ぼした家康は、次の年の元和2年、すべてをやり終えたとばかりに75歳を一期にこの世を去るのである。

 しかしながら、大坂城の落城後に家康が死んでも、豊臣家にとっては後の祭りと申すべきであろう。


 さて、冬の陣の講和は12月9日に成立した。家康・秀忠から籠城した牢人衆の解雇無用、秀頼の本領安堵、淀殿を人質として江戸城に送らなくてもよいといった趣旨の約定がなされ、後日、これらの条件を誓書にして相互交換がなされた。

 一見、豊臣方には「お咎めなし」のいいことずくめのように思える。

 しかし、これも豊臣方を罠に誘い込む餌の一つであった。


 誓書には惣堀破却に関する条文がないものの、講和の証として徳川方の手で惣構え、すなわち惣堀(外堀)を埋めるとの口約束がなされていた。

 その際、

「講和後、豊臣・徳川両家は再び交誼を結ぶのであるから、堀などなくてもよろしかろう。もう合戦はないのでござる。惣堀を埋めたとてご安心を召されよ」

 というお為ごかしの弁を、本多正純は口にした。


 ところが、講和後、徳川方葉は惣堀だけでなく、三の丸、二の丸の内堀までも、昼夜をわかたぬ突貫工事でどんどん埋めていった。

 これに遅まきながら気づいた秀頼側近の大野治長が、

「約定はだけのはず。なぜ内堀まで埋めるのか」

 と、抗議すると、

「大御所はを埋めよと、われらに命じられた。総堀とはすべての堀のことでござろう」

 と、語気荒く返答し、取りつくしまもない。


 幸村ら牢人衆の危惧は的中した。 

 大坂方は古狸の家康の小細工にまんまとはめられたのである。

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