第303話 時節を待つ強さ

 父昌幸の死後も、幸村は九度山で「おのが時」の到来を待った。

 真新しい昌幸の墓前に掌を合わせ、瞑目すると、つと、祖父幸隆の武者姿が瞼に浮かぶ。それは、幸村が弁丸と呼ばれていた少年の頃、根津村に突如として現れた黒糸縅しの武者姿であった。


 幸村が心の中でつぶやく。

「お祖父じじさまも、黄泉の国へと旅立つ前、根津村にわざわざ一騎駆けして参られ、時節を待てと申された。大叔父の頼綱公もまた同様のことを……われが赤き龍になる日は必ず来る」

 家康は佐江姫の仇であり、なおかつ関ヶ原に散った岳父大谷刑部の仇でもあった。その家康の首を刎ね、父昌幸の墓前に据える――それこそが、無念の泪を流した者への何よりの供養となることであろう。


 幸村は待った。

 我慢強く、いつか来るその時を待った。

 稲妻を伴って、天翔けるその日を辛抱強く待った。

 そして三年が経過した頃、父昌幸の予感は的中した。

 慶長19年8月、京都・方広寺の鐘銘しょうめい事件が起きたのだ。


 家康は豊臣を攻撃するための口実として、方広寺大仏殿の鐘銘に言いがかりをつけてきた。梵鐘の銘文にある「国家安康」の一節は、家康の名を切り離し、呪詛するための語句だというのである。

 また、さらなる一節に「君臣豊楽、子孫殷昌いんしょう」とあるのは、ひそかに徳川家を呪い、豊臣の繁栄を祈願する意味が込められていると、決めつけてきた。

 この屁理屈にもならぬ破廉恥な「イチャモン」は、家康の意を汲んだ金地院崇伝がひねり出したという。


 幕府の御用学者である林羅山に至っては、「右僕射うぼくや源朝臣」の銘文を「源朝臣(家康)を射る」と解釈し、単に右大臣の唐名からなである右僕射を「関東不吉の語」と断じた。

 曲学阿世きょくがくあせいの弁もこの域までくれば、呆れて笑うしかない。


 が、豊臣方は青天の霹靂に打たれたように驚き動顛し、弁明に追われた。

 老獪な家康は攻撃の手をゆるめず、すかさず次の一手を繰り出した。






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