第302話 昌幸の死

 人の世には無情の風が吹く。

 慶長16年夏、稀代の謀将真田昌幸は病に倒れ、日増しに容体は芳しからざるものとなり、その躰は見る影もなく痩せ細っていった。

 某日、おのが死を悟った昌幸は、幸村を枕元にさし招いた。

「よう聞け、源次郎。今生の別れの前に、そなたに言い遺すことがある」

「………」

 無言で首肯する幸村に昌幸は告げた。

「せいぜいあと3年じゃ。あと3年以内に、大坂で事が起きよう」

「はっ。しかと承りましてございます」

「そのときまで、わしの命があれば、大坂方の先頭に立ち、家康めの首をこの手で掻き切ってやったものを……無念じゃ」


 直後、昌幸の両手が虚空へと伸び、何かをつかもうとした。

 それは、愛刀村正であったかもしれない。

 村正は徳川家に祟る妖刀として家康に忌み嫌われていたため、昌幸はこの村正を終生愛用していた。


 幸村は虚空へ伸びた昌幸の両手をはしっと両腕に抱きとめ、滂沱ぼうだの泪を流して父に誓った。

「父上のご無念、必ずやこの源次郎が晴らしてみせまする」

 昌幸の目尻から一筋、光るものが滴り落ちた。

 それが最期であった。

 6月4日、稀代の謀将として名を馳せた真田昌幸は、配所の九度山でひっそりと生涯を終えた。

 その夜、丹生川にゅうがわの河原には、無数の蛍が群飛したという。


 翌日、昌幸の遺骸は荼毘だびに付された。

 なお、この2年後、山之手殿(寒松院)は、夫の昌幸の法要を済ませた後、上田城近くの屋敷にて自害した。

 法要の前日、山之手殿は侍女にこう語ったという。

「あの世には美しい女子も多いことであろうの」

「はて……薄衣の天女が舞っておりましょうか」

「ならば、女好きの殿の煩悩がますます増えよう」

「………」

 返答に窮した侍女に山之手殿が片頬笑んだ。

「ふふっ、ならば黄泉の国まで追いかけて、わが殿を女難からお守りせねばならぬ」

 山之手殿の享年は不詳である。

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