第293話 佐助の仕掛けた悪夢―3

 目の前に槍の穂先が飛び出してきて、佐助は思わず跳びのいた。

 忍びの者の仕業と見破られたものの、照れ隠しであろうか。去り際に「チュー」と鼠鳴きをしてみせた。

 佐助ならではの愛嬌である。


 下の寝間では、利勝が槍を引き、穂先を確認した。血がついていない。仕留めそこなったのだ。

 利勝は天井を見上げたまま、残念そうにつぶやいた。

「いやはや、大きな鼠でござったわい」


 しかし、その夜から、徳川秀忠はいつ真田忍びに寝首を掻かれるかと思い、気が気ではなくなった。思えば、家康の贋首にせくびを寝間に持ち運んできた曲者から、命を奪われていても不思議ではなかったのだ。

 忍んできた曲者が、人をあやめるのが嫌いな佐助で幸運であったというほかない。霧隠才蔵なら、秀忠の首は間違いなく胴から離れていたであろう。


 秀忠は恐怖にかられ、

「もはやここにはおれぬ」

 と、夜が明けるや否や、全軍に撤収というか、転進を命じた。

 朝靄をついて、徳川軍3万8千余の軍勢が、小諸城を出て、西に向かった。

 真田攻めを断念し、中山道を上方へと急いだのである。

 秀忠にとって、まさに悪夢のような10日間であった。


 秀忠軍の最後尾に、徳川の雑兵になりすました佐助の姿があった。

 秋の蒼い空に、一据ひともとの白い鷹が翼をきらめかせて舞っていた。飛雪丸である。


 秀忠は上方へのこの行軍でも大きな失策を犯した。

 真田勢の追撃を警戒して、本道の和田峠を避け、わざわざ険しい大門峠を越えようとしたのだ。折から豪雨になった。将兵はぬかるんだ峠道を喘ぎながら進んだ。

 秀忠にさらに悲劇が襲いかかった。

 豪雨で増水した木曽川を渡りきるのに数日かかってしまったのだ。

 こうした結果、ようやく妻籠宿に到着したのが、9月17日。この日、秀忠は上方からの早馬で、驚愕の事実を知る。


 秀忠の本陣に飛びこんできた急使は、息も切れぎれに注進した。

「去る15日、東西両軍が関ヶ原にて合戦し、お味方大勝利!」

 何たることであろうか。

 秀忠の顔はすっと蒼褪め、気が遠くなって、その場にヘナヘナとへたり込んだ。


 上田城に指一本ふれ得ず、まして天下分け目の決戦にも間に合うことができなかったのだ。

 父家康は怒っているのに相違ない。最悪、詰め腹を切らされよう。

「おのれっ、真田めっ!」

 秀忠はくやしまぎれに、こぶしを振りあげて叫んだ。

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