第290話 秀忠、愚かなり―5

 徳川軍は、真田方に翻弄され、われを失い、指揮系統も乱れ、ひたすら上田城を力攻めしようと大手門に群がった。

 このとき――。

 尼ヶ淵をのぞむ本丸の高台から、狼煙が上がった。

 それを見た幸村が、望月六郎らとともに、混乱し、手薄となっていた秀忠本陣を急襲したのである。

 

 総大将の首を獲られることは、合戦の敗北を意味する。

 幸村の急襲に徳川軍は「すわ!」と驚きあわて、染谷台の本陣を捨てた。

「秀忠さまをお守りせよ!」

「ひけいっ、神川の向こう岸まで撤収じゃ!」

 秀忠軍は算を乱し、東の神川方面へと敗走したのである。


 信じられないことに、15年前の戦いが、ほぼ再現された形となっていた。

 そして、神川の合戦の悲劇が、再び徳川兵を襲った。

 青空に立ち上がった一筋の黒い狼煙を合図に、満々と湛えられた神川上流の堰が切られた。

 この濁流の洪水に、多くの徳川兵が飲み込まれ、おびただしい死傷者をまたしても出してしまったのだ。


 繰り返すが、徳川方は三万八千余の大軍である。

 なのに、秀忠の将才のない采配により、麾下の諸将は感情にまかせて勝手に動き、そのあげく本陣まで襲撃されることになったのだ。

 徳川の軍旗は地に倒れ、総大将たる秀忠の面目は完全に丸つぶれとなった。

 父家康が味わった以上の屈辱を受け、秀忠は血のにじむほどに唇を噛んだ。これ以来、秀忠は「真田嫌い」となり、信幸にも辛く当たることになるが、それはまだ先の話である。


 本陣を急襲され、命からがら逃げた秀忠は、念のため、小諸城へと退いた。

 真田の猛攻にどれほど肝を縮めたか、この一事でも十分に理解できよう。

 9月7日に至り、秀忠軍は軍議を開いた。

 このまま、攻撃を続行するか、それとも撤退して上方に向かうか、喧々諤々けんけんがくがくの議論となった。

 船頭多くして船山に上る。しかも、秀忠は凡庸で、諸将をまとめることができない。

 愚かにも、この議論を3日もつづけたのである。

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