第282話 真田昌幸の決断―4

 昌幸は徳川を倒して、ゆくゆくは天下の覇権を争おうとしていた。

 家康の将才、将器は自分より劣るものと考え、そのような人間に服属するなど、昌幸にとって我慢がならないことであった。

 昌幸は信幸に声をひそめて言った。

「おぬしは徳川家に与してもよい。わしはそれで別に構わぬ。じゃが、ここぞというときに、おぬしが徳川を裏切り、家康めの寝首を掻くのも……ふふっ、一興と思わぬか」

 これを聞き、信幸は唖然としながらも、声を絞り出した。

「なりませぬ。徳川を敵にまわすこと、真田家のためになりませぬ」


 ここで、それまで黙って二人のやりとりを聞いていた幸村が口を開いた。

「兄上。徳川方には義がありませぬ」

「ほう。義とな」

「いかにも」

「では、訊く。そなたのいう義とは何か」

「義とは我を美しくと書きます。家康公は太閤殿下との約定にそむき、権謀をもって覇道を進めております。いまだ豊臣家の五大老でありながら、獅子身中の虫ともいうべき浅ましい不義を犯して恥じぬ輩。それがしは、そのような者に、へつらってまで保身を図ろうとは思いませぬ」


 その瞬間、眦を吊り上げた信幸が脇差の柄頭をつかみ、叫んだ。

「おのれっ。われをへつらい者とあざ笑う気か」

 間髪を入れず、幸村が佩刀の五郎入道正宗に手をかけようとした。

 両者、そのまま睨み合うことしばし――。

 信幸の目にはあからさまに瞋恚しんいの炎が燃えていた。父昌幸と幸村が同心した上で、すでに不離一体となっていることに激しい嫉妬の念を掻き立てられていたのである。


 このとき、昌幸が、

「二人ともやめよ!」

 と、一喝したが、珍しく興奮した幸村が、なおも言い募る。

「兄上、よくよくお考えくだされ。母上は現在、大坂の城におられます。いわば、われらの人質。真田家の去就によっては、母上のお命があやういものになりましょうぞ」

 つと、信幸が幸村から視線をはずし、うつむいた。

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