第276話 石田三成という人物

 石田三成は、天下分け目の「関ヶ原」で敗軍の将となった。これにより、豊臣家滅亡の契機をつくった武将との誹りを受けがちである。

 確かに、三成には戦場往来の経験が乏しく、武将としての評価は低い。

 小田原北条攻めの際も、武蔵忍城おしじょうを二万余の大軍で攻囲し、水攻めしたものの、結局、攻略に失敗している。


 しかしながら、三成はそもそも槍働きを得意とする武将ではない。

 彼の武器は、秀吉をして「才器、我に異ならざる者は、すなわち治部少輔、一人あるのみ」といわしめた天才的頭脳であった。

 

 三成は若くして五奉行、堺奉行に任じられ、豊臣政権下で能吏としての才智を存分にふるった。

 文禄・慶長の二度にわたる朝鮮の役の際には、船奉行筆頭として20万の大兵団渡航の大仕事を差配した。再度いうが20万人である。これひとつをとってみても、三成の尋常ならざる吏才のほどが窺い知れよう。


 三成は秀吉と二人三脚で政権を動かしてきたのだ。

 この才智の塊のような男は、それだけに自分と似たような才気煥発の人間を好んだ。たとえば、上杉家の若き家老直江兼続は莫逆の友であり、大谷吉継、真田昌幸などといった知勇兼備の武将とは肝胆相照らす仲となった。


 それだけに、鋭すぎる頭脳を持つこの男は、律義者の仮面をかぶり、陰でこそこそと天下を窺う家康に対しては、当初から胡散臭いものを感じていたに相違ない。

 次の天下取りをめざす家康と、豊臣政権の中枢を担う三成――両者の対立は、運命的に決定づけられていたのである。


 話は余事にわたったが、ともあれ三成が仕遂げた最大のこと。それは、たかだか19万石程度の身上でありながら、250万石余の大大名たる家康を向こうにまわし、史上に名をとどめる堂々の大戦を関ヶ原で成したということではなかろうか。

 しかも、戦う前から家康断然有利という下馬評があったにもかかわらずである。

 小人物どころか、見事な大人物といわざるを得ない。

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