第275話 秀吉の死

 矢沢頼綱が大往生を遂げた翌年、秀吉が伏見城でこうじた。

 慶長3年8月18日のことである。


 死期を悟った秀吉は、これ以前の7月、家康をはじめとする五大老・五奉行らに、わが子秀頼への忠誠を誓わせる血判起請文を二度も提出させていた。

 その上で、「返すがえすも秀頼のことを頼み申し候」と、諸大名にすがりつくように懇願した。

 

 秀吉は旧主織田信長の三男信孝などを殺し、織田家から天下を簒奪した。自分のした残虐非道な過去を顧みれば、誓詞など紙屑同然であることは自明の理ではないか。それもわからぬほど、すでに秀吉は耄碌していたのである。

 天下人となり、栄耀栄華をきわめ、精神がふやけた末のあわれな末路であった。


 五大老は秀吉の死を秘し、朝鮮出兵していた日本軍の撤退を進めた。

 この辺りから、歴史の歯車は、虎視眈々と天下の覇権を狙っていた家康を中心に回りはじめる。

 秀吉が死んだ途端、それまで忠義者を装っていた狸の家康は、かぶっていた化けの皮を自ら剥ぎ取った。

 家康は秀吉との違約にそむき、おのれの娘や息子を有力大名家に次々と縁づかせた。縁組みにより、有事の際の味方を増やそうとしたのである。

 この縁組には、伊達、福島、蜂須賀、加藤といった有力大名が応じた。


 これに、五奉行筆頭の石田三成と五大老の前田利家が激しく反発し、利家死後は、「三成の西軍」対「家康の東軍」という構図の戦いに収斂していく。

 ところで、石田三成といえば、幕末に編纂された『日本外史』や『大日本野史』等による筆誅により、姦臣、陰謀家などとけなされ、戦さは下手なのに権勢欲だけは強い俗物、小人物などと評されてきた。

 しかしながら、そうした評価たるや、果たして正鵠を射ているのであろうか。

 次回は、この石田三成について筆者なりの見解を述べることにする。

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