第267話 秀吉と家康と昌幸―2

 覚悟した昌幸の首筋に、またしても何かがふれた。

 ふれただけでなく、今度はピタピタと軽く打ち叩かれた。

 昌幸が「何事なるか」と、頭を上げてみれば、秀吉の猿顔がすぐ前にあった。

「ははあーっ」

 昌幸としては、再び平伏せざるを得ない。


 その昌幸に秀吉が笑いながら言う。

「そのほう、僭越である。断じて許せぬ」

「ははあーっ」

 と、さらに頭を下げで這いつくばったものの、昌幸には何が何やら分からない。

 秀吉が扇子で昌幸の首を持ち上げた。

 やむなく昌幸は秀吉と目を合わせた。


 猿面冠者の秀吉が言う。

「そのほうは、このわしですら手こずった三河殿を神川の戦いでこてんぱんに負かしたとか。関白たるわしに、武勇がまさるとは不遜であろう。許せぬ」

 これを聞き、居並ぶ諸侯の誰もが呵々大笑した。大広間に笑い声が満ちる。

 昌幸はようやく生きた心地がした。

 秀吉は戯れ言をほざいているのだ。


 猿も陽気に大口を開けて笑い、言葉を連ねた。

「仮にそのほうの領地が信濃ではなく、京の都近くにあれば、今頃、天下をわしと争っておったやもしれぬ。いやはや、恐るべき男よ」

 昌幸に対する最大級の賛辞であった。手放しで褒める目が、人なつっこい。

 ――これが秀吉の「人たらしの術」か。

 と、昌幸は神妙に畏まりつつも、驚嘆せずにはいられなかった。


 と同時に――。

 昌幸の頭の中に、ふと駿河でのことよみがえり、胸のうちで独白した。

「にしても、あの男は好きになれぬわ」

 あの男とは家康のことである。

 三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五カ国を領有する大大名でありながら、あの男の目には鷹揚おうようさというものがなかった。

 狸が穴から外を窺うような目をしていた。

「あの狸男とは、いずれ雌雄を決せねばならぬことになるであろう」

 昌幸の胸に、叢雲むらくものような昏い予感が湧いていた。

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