第260話 才蔵の女あるじ―2

 佐助の隣で才蔵の低い声がした。

「あるじ殿、この者が、例の真田忍びでござる。いつぞやの合戦の折、服部半蔵めの顔を蹴り飛ばした手練れ。この先々、何かとお役に立つかと存じ、召し連れて参り申した」


 才蔵が佐助を横目で見遣って、言葉を連ねた。

「佐助、このお屋敷の奥を取り仕切るご上臈、千代月さまじゃ。もとのお名は千代乃さまと申される。おぬしも知ってのとおり、源次郎信繁さまの御母君であらせられる。このこと、かまえて他言無用」


「はははっ」

 佐助が畳に額がつくほど、さらに身を低くした。

 と同時に、

「ならば、このお屋敷は大納言さまの……」

  という思いが脳裏をよぎった。


 大納言とは、菊亭大納言晴季はるすえのことである。

 真田家当主の昌幸は、この菊亭晴季の養女を妻としている。その妻とはすなわち山之手殿にほかならない。

 晴季と豊臣秀吉と深く結びついていた。

 秀吉が関白の位に就けたのは、この晴季のおかげであった。大納言晴季の斡旋なくして、秀吉が位人臣をきわめることは不可能であった。

 その代償として晴季は、秀吉から莫大な金銀が献上されていた。 


 この頃、秀吉は全国の金山、銀山を掌中におさめ、天下の財宝の半ばを独占していた.これから3年後の天正17年、秀吉は京の聚楽第で金6千枚、銀2万5千枚を自分の一族をはじめ、公卿、諸侯らに分配した。

 この大判振る舞いに、貧乏な公卿らは狂喜乱舞したという。


 つと香のかおりがゆらぎ立った。

 千代乃が上座から立ち上がり、平伏する佐助の前に、一歩近づいてきたのだ。

 身を固く縮める佐助の耳元で、天界からのささやきのような声が聞こえた。

「佐助殿、そなたの身は才蔵殿同様、わらわが預かる」

「ははっ」

「向後、よしなに頼み入る」

 書院から衣擦れの音が去った。

 佐助は泣いた。金壺眼から涙がとめどもなく畳にこぼれ落ちる。


 なぜだか分からないが、千代乃から言葉をかけられて、佐江姫を守りきれなかったかつての過ちが、ほんのわずかではあるが、許されたような気がしたのだ。

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