第244話 火草と佐江姫との約束―1

 酒に目がない矢沢三十郎が、さらに言う。

「上方には柳酒という清酒すみざけがござる。これは天下の美酒。これは、狂言にうたわれるほど世上名高いものにござる」

 幸村が酒の話題に興味を示した。実は、幸村も酒好きである。

「ほう、狂言に謡われておると……どのような謡いでござるか」

「では、お粗末ながら、ここでご披露つかまつる」

 と、前置きし、三十郎は狂言餅酒もちざけの一節を謡い上げた。


♪松の酒屋や梅壺の~♩柳の酒こそすぐれたれ~♫

 なかなか渋い声である。


「お見事でござる」

 青鹿毛に騎乗する三十郎の背後から声がかかった。

 幸村と同じく白葦毛に騎乗する望月六郎であった。

 その隣で栗毛の馬に跨った若武者が控えめに微笑んでいる。

 若武者が口を開いた。

「三十郎さま、大坂の城には美酒がたんとござりましょう。おそらく柳酒も、灘の銘酒も」

 その澄んだ声は、何と女忍の火草ではないか。

 若武者に扮した火草が、凛々しい姿で馬の背に打ち跨っているのだ。

 ――しかし、何故に、若武者姿でここにいるのか?


 幸村出立の前夜のことであった。

 幸村は上田城の小泉櫓で望月六郎と大坂までの旅程について談じていた。

 緻密な話し合いは、矢沢三十郎向きではない。

 幸村と望月六郎の二人が語り終えた頃――。

「ご無礼をつかまつりまする」

 と、襖越しに女の声がした。

 それは火草の声であった。


 望月六郎が口を開き、下問した。

「火草であるか、何用じゃ」

 火草が襖の向こうから応える。

「卒爾ながら、お願いしたきことがございまして……」

 その声がいささか聞き取りにくい。

「構わぬ。襖を開け、こちらに参れ」

 と、六郎が言うや、襖が静かに開き、川風が入ってきた。


 小泉櫓の下には千曲川支流の尼ヶ淵があり、そこからの川風であった。

 火草は襖を開けたものの、遠慮がちに襖の端にひざまずいたまま、幸村らに近づこうとしない。

 幸村と望月六郎が目を合わせた。

 火草が何やら思い詰めた表情を浮かべているのだ。

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