第229話 頼綱の狂奔―1

 さて、ここで北条軍について述べておきたい。

 徳川軍と呼応して挙兵するはずの北条軍の動きは鈍いものであった。上州特有の空っ風が吹きはじめた九月下旬、北条氏直はようやく腰を上げ、三万の大軍で沼田城を十重二十重に取り囲んだ。


出陣当時は二万余の陣立てであったものの、進軍するにつれて加勢の軍が次々と加わり、三万に膨れ上がったため、進軍も遅々たるものとなった。


 沼田城を守る武将が、佐江の父矢沢薩摩守頼綱であることは申すまでもない。頼綱は忍びの者から、すでに「真田衆、上田城の合戦で徳川方に大勝利」との報告を受けていた。

 さらに、甥の昌幸からもたらされた書状によれば、

「援軍到着まで防備堅固に籠城し、自重されたし」

 とある。

 そこまではよい。

 が、しかし、その書状の末尾に記された一文を目にしたとき――。

 

 頼綱の双眸はカッと見開かれ、全身の血は一気に逆流した。そして、あろうことか、その眼窩からは朱の泪が滴り落ちたのである。巨躯がおこりに襲われたように、ぶるぶると激しくふるえた。


 瞬後。

 頼綱は床几を蹴立てるや、

「馬ひけいっ!」

 と、咆哮し、馬上の人となった。

 そして、なんたることか。憤怒の槍を振りかざし、八面雲霞うんかのごとき敵の只中に突進したのである。


 馬上、羅刹のごとき形相で何やら喚いている。

「佐江えええーっ、姫えええーっ。わしも今すぐそなたの元へ参る。待っておれ!」

「わしを殺せ。わしの首をとれ。わしを射よ」

 

 狂おしく猛り狂う頼綱を目がけて、矢が唸りを上げて飛来し、鎧には数条の矢が突き刺さった。その中の一矢は、頼綱の耳朶を削ぎ、兜のしころを貫いた。

 それをものともせず、頼綱は群がり寄る敵兵を薙ぎ倒し、馬蹄にかけ、絶叫した。

「殺せ。わしを殺せ。見事討ち取って手柄にせよ!」

「姫えええーっ、今すぐ参る!」

「そなたの元へ今すぐ参る!」

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