第228話 徳川軍の撤退

 一方、神川の戦いで敗走した徳川軍は、上田城から三里ほど離れた八重原やえはらまで退き、善後策を講じていた。

 『上田軍記』によれば、この戦いで真田方の死者は雑兵を含めてわずか31人。片や徳川方は千三百余の兵卒を討ち取られたとある。

 それだけに、徳川の陣では、なんとかして反攻策をと腐心していた。


 ところが某夜。

 上田城の北にそびえる太郎山に、おびただしい松明の火が見えるではないか。

「もしや、あれは上杉の援兵なるか」

「ここで上杉に攻められては、われらはひとたまりもない!」

 徳川方は、佐江の葬列の送り火を上杉軍と思い込み、顔色を変えた。


 無理もない。

 徳川の士卒は、負け戦さつづきで疲労困憊こんぱいのきわみにあった。

 しかも、敵方の武装農民らに、兵糧や弾薬を運ぶ小荷駄隊を襲われ、空きっ腹を抱えていたのである。

 すっかり気勢をそがれた徳川軍は、軍議の結果、上田城からさらに離れた小諸城まで退却した。

 

 そこへ、驚くべき情報が舞い込んだ。

 家康の側近中の側近、石川数正が一族郎党を引きつれ、突如、豊臣秀吉のもとに出奔したというのだ。この寝返りに、徳川方は震撼し、混乱に陥った。

 石川数正は、家康の幼少時代から近侍し、岡崎城をあずかる三河譜代の重臣である。それだけに、徳川軍の軍事機密の裏の裏まで知り尽くしていた。

 この人物が、豊臣方に寝返れば、秀吉はいずれ大軍勢を催して、徳川領に攻め込んでくるに違いない。


 小諸城にいた徳川の武将は、

「徳川にとって一大事じゃ。もはや真田などに構っておられぬ。一刻も早く浜松に帰って、豊臣方の来攻に備えるべし」

 と、信濃から撤退をはじめた。

 天正13年閏8月26日のことであった。


 無論、真田攻めのかんばしくない状況は、逐一、浜松城の家康にももたらされていた。それに加えて、石川数正の予想だにせぬ裏切り。

 家康は苦りきり、

「あの人たらしの猿めに、わが飼い犬までもがたぶらかされるとは!」

 と吐き捨て、左手親指の爪を血がにじむほど噛んだ。

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