第219話 夜叉姫凛然―2

 火草が口読みの術を使って佐助に語りかける。

「佐助どの。油断めさるな」

 佐助も同じく口読みの術で返す。

「やれ、かたじけない」


 無言、かつ神速果敢な動きで、二人は佐江を守った。

 佐江自身は前へ、前へと残月を駆るのに夢中で、それ以外、何ひとつ眼中にない。合戦の場へはじめて出たというに、幸村の姿を目にした瞬間から佐江は、おのれの生死すら忘れていた。


 戦場往来を重ね、心胆を鍛えた武士でさえ、いざ合戦となると、その都度、死の恐怖で目の前が薄暮のように昏くなるという。ましてや、初陣の若武者たるや、敵味方の区別さえつかないのが当たり前なのである。


 乱戦の中で幸村の姿を見失うまいとする佐江にひるみはなかった。そのあるじの一念が乗りうつったのか、残月は立ちふさがる敵を馬蹄にかけ、白兵戦の怒号の中を、ぶるると鼻嵐を鳴らしながら、目を吊り上げて駆けた。


 その残月の脚が、突如、並足になった。

 佐助は鞍の上に目を移した。

 佐江が馬上にのびあがった姿勢で、美しい眉を曇らせて前方を見据えている。

 紅の唇がふるえた。

「佐助、あれに見ゆる高台の陣は、敵か味方か」

「あの旗印は揚羽蝶。敵と存じまする」

「ならば、源次郎さまがあやうい!」


 幸村の隊は、行く手の高台の陣を味方のものと見まごうているのか、まっすぐに進んでいた。このままでは、高台から鉄砲、弓矢で狙い撃ちされ、敵の餌食となろう。

 佐江は背の矢筒から、雪白の矢羽根の矢を取り出した。それは、雁股の鏑矢であった。

「いざ!」

 佐江は鏑矢を口に加え、赤漆塗り重藤の弓で残月の尻を叩いた。そして、前方の台地に向かって一気に馳駆したのである。

「姫さま!」

 佐助が狼狽した声をあげた。

 火草の目が引き吊った。

 佐江が敵の只中に突進する。

 もはや何が起きても不思議ではない。

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