第217話 三河武士の意地―2
大久保忠世の弟、平助はよく通る声で呼ばわった。
「鳥居どの、平岩どの。それでも三河武士か!腑抜けと言われとうなかったら、一戦召されよ」
だが、それでも返事がない。
忠世がつぶやいた。
「あたかも下戸に酒を強いるがごとし……」
次に忠世は、信濃衆の保科正直に向かって叫んだ。
「保科どの。わが大久保隊がこの高台で敵をくい止め申す。よって、貴殿は川を渡って来られたし。わが隊の後詰めをお願い申す」
だが、保科正直も返事しない。
臆病風に吹かれ、顔色まで蒼ざめているのか、虚ろな目を虚空に向けている。
忠世は、それを見て憤慨し、
「あったら知行かな」
と、吐き捨てた。
かような者に、地行を与えているのはもったいないと断じたのである。
「ええいっ、やむをえぬ」
大久保兄弟は、自軍のみで戦ってみせると腹を固めた。
布陣した高台から見渡すと、すでに左右に敵兵が押し寄せ、しかも味方からは完全に孤立しているのだ。
「兄者、立派に死のうぞ」
「おうっ、見事討死にしてみせるわい」
大久保兄弟は、このうえは矢尽き、刀折れるまで戦い、三河武士としての面目を施すのみと眦を決した。
風が強くなり、川面が激しく波立った。
揚羽蝶の旌旗が音を立ててはためいた。
大久保兄弟は肩を並べ、小手をかざして敵の動きを見澄ました。
すると、まったく見覚えのない騎馬武者がこちらに平然と近づいてくるではないか。
――敵か、味方か。
兄弟は目をこらした。武者の鎧に徳川の袖印がない。
弟の平助が先に叫んだ。
「そやつは敵ぞ。槍で突け、突き落とせ!」
その声に応じた足軽が騎馬武者に向かって槍を繰り出した。
騎馬武者がそれを躱して、呵々大笑する。
「ウワッハハ。これは徳川の陣地でござったか。なるほど、揚羽蝶の旗幟。大久保どのでござるな。ご武運、お祈り申す」
どうやら真田の武将が、味方の陣地であると思い込み、近づいてきたものらしい。
このときの真田の武将は、日置五右衛門であったことが、のちの大久保彦左衛門の自伝『三河物語』に記されている。
敵味方入り乱れる戦場である。このような過ちは時として起こりうることであった。
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