第216話 三河武士の意地―1
佐江姫が国分寺表に急いでいた頃――。
上空を舞う飛雪丸の眼には、敗走する徳川軍の黒々とした群れが映っていた。
神川の岸に、幾千もの徳川兵が精根尽きはてた体でへたり込んでいたのである。
あまたの人馬を呑み込んだ不意の奔流から、かろうじて逃れ得た者たちの悄然たる姿であった。九死に一生を得たものの、水びたしになった具足が肩にずしりと重く、もはや立ち上がる気力すら湧いてこない。
だが、事態は切迫していた。
勝ち戦さに意気あがる真田軍が目前に迫ってきているのだ。
川風にのって、喊声、銃声が近づいてくる。このままでは腹背に敵の攻撃を受けて、徳川軍は壊滅的な打撃をこうむるであろう。
まさにこのとき。
今こそ三河武士の意地を見せんと、反撃を試みた武者がいた。
金の揚羽蝶の旗指物をひるがえし、
「戦わんとする者は、われにつづけ!」
と、高らかに咆哮し、河岸の高台めざして疾駆した。
猪武者と評される大久保忠世であった。
銀の揚羽蝶の旗指物を背に、弟の平助(のちの大久保彦左衛門)が遅れじと、そのすぐ背後を駆け、高台へと馬を進めた。
大久保忠世は、この神川の高台を拠点で敵を迎え撃つ心算であった。
ここで踏みとどまり、せめて敵にひと太刀浴びせておかねば、わが徳川軍は満天下に恥をさらすことになる。このまま世の嗤い者となれば、おめおめ生きておられようか――。
そうした強烈な自意識が、この兄弟を衝き動かしていた。
大久保兄弟が陣取った高台に揚羽蝶の旗幟を高々と掲げさせるや、それを見て、味方の兵がわらわらと集まってきた。
忠世は河岸の向こうでへたり込んでいる鳥居元忠、平岩新吉に向かって叫んだ。
「貴公ら、なにゆえ戦わぬ。そんなに命が惜しいか。この高台まで戻って参れ。三河者の名折れぞ」
だが返事がない。すっかり戦意を喪失しているのだ。
「くそっ!臆病者めっ」
今度は弟の平助が川向うに向かって大声を放った。
それは、兄よりも挑発的な言葉であった。
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