第212話 水攻めの奇略―2

 幸村は長谷寺和尚の海翁に、脳裏にひらめいたことを相談した。

「ほう、水攻めの策戦であるか。それはいい」

 海翁は巨眼を見ひらき、大きくうなずいた。

 神川を上流でせき止め、徳川軍が川に差し掛かったとき、その堰を一気に切れば、とんでもないことが起きよう。

 海翁は幸村の奇策を取れ入れ、近在の農民の力をかりて、合戦の三日前から上流に堰をつくりあげ、満を持していた。


 この季節、小県ちいさがたの空にはしばし陰雲が垂れ込め、信濃の人々が言うところの「峡霎さいぶり」なる気象現象が見られた。

 これは里には降らないが、山間部には降雨があるという空模様で、折しも奥山に降った大雨が、海翁がつくった堰に満々と水をたたえることとなった。


 堰を切る合図は、虚空蔵山からの狼煙で知らされた。

「堰を切れいっ!」

 と、海翁の号令が農民らに飛んだ。


 上流の堰が一気に切られ、神川の山津波のごとき濁流が数多あまたの徳川兵を飲み込んだとき――。

 海翁の隣には、異形の光彩を放つ一人の武士の姿があった。

 巨躯の海翁と肩を並べても遜色のない身の丈である。総髪を風になびかせ、紅羅紗の袖なし羽織の背には、四尺余の長剣。

 さっから腕組みをしたまま、ひと言も発しない。伊賀の才蔵だ。


「徳川のやつら、まんまと罠に引っかかりおったわ。しかしながら、ここまでうまくいくとは……のう、才蔵どの」

 海翁から声をかけられた才蔵は、腕組みをとき、右手を大脇差の柄頭に置いた。

 そして、ややあって重い口を開いた。

「たしかに、なかなかの見ものでござった」


 海翁が問いかける。

「いかがであろう。これを機に、真田家に仕える気はござらぬか。これは拙僧の願いでもある」

「さて……」

 才蔵は眉尻を心もち上げ、しばし思案顔になった。

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