第211話 水攻めの奇略―1

 ひたすら東へと敗走する徳川軍を、神川の手前で待ち受けていた一隊があった。昌幸の嫡男である源三郎信幸の兵三百余であった。信幸の手兵は、一斉に喊声を上げ、徳川軍に猛然と突っ込み、斬り立てた。


 もはや徳川の先鋒、中軍は隊形が四分五裂となり、完全に戦意を喪失していた。誰もが自分が助かりたいという一心で逃げ惑い、まったく収拾がつかない。

「神川を渡れ、逃げるのじゃ」

「川向うの本陣に合流し、生き延びよ」

 

 徳川軍の多くが、われがちに神川の流れに足を踏み入れたとき、一陣の川風が起こった。

 その直後――。

 川上で地鳴りのような轟音がした。

 異様な物音に、軍馬が恐怖に目を引きつらせて棹立ちになり、鋭くいなないた。

 一人の騎馬武者が叫んだ。

「ややっ、あれを見よ」

 なんと神川の上流から、もの凄い轟音とともに山津波のごとき濁流が押し寄せてくるではないか。

 

 おびただしい数の軍馬が、士卒がたちまち土石を巻き込んだ奔流にのみ込まれた。白日夢か、それとも悪夢なのか。まがまがしくも悲惨な出来事が出来しゅったいしたのである。徳川勢は濁流に押し流される人馬を見て、茫然と絶句した。


 この水攻めの奇策を立てたのは幸村であった。

 今からおよそ半月前のことである。

 祖父一徳斎幸隆の月命日の日、幸村の姿は真田家菩提寺の長谷寺にあった。

 幸隆の墓を清め、黒水晶の数珠を手に合掌したとき、不思議なことが起きた。幸隆の手からぽろぽろと数珠の珠がこぼれ落ちたのである。


 ――ん?数珠糸が切れたか。

 幸村は黒水晶の珠の行方を目で追った。

 すると、墓の前の拝石の上に落ちた珠は、大きく跳ね、そのことごとくが傍らの水桶に飛び込んだではないか。


 ――さても面妖な。

 と、幸村がいぶかった瞬間、脳裏にひらめいたのが、いかなることであったかは言うまでもない。

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