第202話 幸村参陣―3

 太郎山から吹きおろす風が、幸村の頬を打った。

 その双眸に、おびただしい旗指物が映る。徳川軍の第一陣が、神川かんがわの浅瀬を渡りはじめた。

 先鋒の騎馬が水しぶきを蹴立て、今にも渡り切るかに見えた、そのときであった。


 幸村が無言のまま采をふった。


 と同時に――。

 鉄砲組頭の筧十蔵が、刀傷の走る髭面をひきつらせ、声のあらん限り咆哮した。

「撃てえええええーっ!」

 真田鉄砲隊の銃口が一斉に火を噴き、その炸裂音が蒼い空をふるわせたとき、激しいいななきとともに、ある馬は棹立ちとなり、ある馬き前のめりに倒れた。第一陣の甲冑武者のことごとくが水中に投げ出されたのである。


 敵に怯みの色が見えた。

 海野六郎が絶叫する。

「放てええええええーっ!」

 弓隊の射術は、神技の弓箭術を誇る六郎直伝である。たちまち正確無比な矢が、横なぐりの雨のように飛び、敵は苦悶の声とともにたおれた。


 世にいう神川の戦いの幕開けであった。


 この前日のこと――。

 戦いの準備を進める幸村に、昌幸はくどくどしく言葉を連ねた。

「よいか。断じて血気に逸るでない。敵と干戈かんかを交えず、その眼前をすごすごと逃げ去るだけでよい。さすれば、寄せ手は真田弱しと増長し、そにたを猛然と追尾してくるであろう。そこが、つけ目よ。きゃつらを油断させ、罠にめるのじゃ。わかったな」


 つまり、弱々しく後退し、上田の城下に功に焦った敵をおびき寄せるのが、幸村に与えられた役割であった。

 が、この日、徳川軍を前にした幸村には、内心、期するものがあった。おとり役になるだけでは、物足りない。

 幸村は、この日、緒戦しょせんとなった神川の戦いで、父昌幸にそむいてでも、徳川軍に痛打を与えたかった。その思いに、筧十蔵の鉄砲隊と、海野六郎の弓隊は見事に応えた。

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