第197話 風雲頗急―1

 どこかの梢でふくろうが啼いている。

 鬱蒼とした杉木立の上にある満月が、やや青みを帯びている。夜明けが近い。


 ここは上田から五里ほど離れた佐久の谷あいである。三日前からの雨で水嵩みずかさが増した渓流が、轟音を響かせ、十数丈の絶壁をなだれ落ちていた。


 やがてその瀑布の水しぶきの中から、一人の小男が跳ねるように飛び出してきた。疱瘡痕ほうそうあとの残るあばた面に、愛嬌のあるどんぐり眼。佐助だ。背にたきぎを負い、杣人そまびとに変装している。


 つづいて滝の水しぶきを避けるように、一人の女がすっと現れた。火草であった。

 美しい顔や髪をわざと泥で汚し、つぎはぎだらけの薄汚れた野良着をまとっている。


 滝のうしろには洞窟があり、そこは古くから真田忍びの拠点のひとつとなっていた。洞窟の中には、岩壁にそって長細い小屋が設けられ、そこには各種の忍び装束、手裏剣や苦無、鉤縄かぎなわ、手槍などの武器のほか、松明たいまつ、傷薬、食糧などが蓄えられている。


 貧しい百姓夫婦に変装した佐助と火草は、谷あいの道を南へと向かった。この二人は、偶然、北信濃の戸隠出身という共通の地縁を有していた。互いに同じ在所の出身ということもあり、佐助と火草が急速に親密な仲となるのは、さほどに時間がかからなかった。

 今日も今日とて、二人はともに行動し、むつまじげに言葉を交わす。


 火草が佐助に語りかける。

「ときに才蔵と申す伊賀者のあとをつけたのであろう。かの者、地蔵峠からどこへ参ったのじゃ」

「実は……」


 佐助が口ごもりながら、面目なさそうに応えた。

「あの日、あやつは山道を川中島方面へと下った。オラは森づたいに木の葉隠れで追った。じゃが、どうやら気づかれたらしい。唐沢からさわの村の前に差し掛かると、突如、行く手に霧が立ちこめ、情けないことにかれてしもうた……」

「それは無理からぬこと。才蔵は摩訶不思議な隠遁の術を使うという。よって霧隠という名で呼ばれると聞く。かの者の霧隠の術を破った者は、いまだ一人としておらぬとか」

「……」

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