第195話 上杉家の士風―3

 上杉景勝の養父、謙信もまた衆道好みであったという説がある。

 この謙信について『北越軍談』には、「発願ほつがんの趣旨ありて女色を禁じ、一生不犯ふぼんたる故、実の継嗣けいしなし」とある。


 つまり、戦勝祈願のため、生涯不犯の願掛けをなすとともに、正室や側女そばめを置かず、侍女さえ身辺に近づけなかったというのだ。当然、跡継ぎは生まれない。そのため、景勝は謙信の異母姉の子、つまり甥である景勝を養子にしたのである。


 謙信の養子はもう一人いる。それが、北条氏康の子、三郎こと景虎かげとらである、この景虎は、関東随一の美少年であったと伝えられている。

 謙信はこの景虎を愛すること甚だしく、それが景勝との跡目争い「御館おたての乱」につなかったともいわれている。

 

 では、女を断った謙信が、何をしたかというと戦さである。

 謙信は戦術を練り、敵を翻弄し、痛打を与えることを唯一無二の愉しみとした。


 天文21年(1553)、北信濃の豪族村上義清らが武田氏に敗れ、泣きついてくると、直ちにの旗印を掲げ、大軍を率いて川中島に進出した。

 五次に亙る川中島の合戦のはじまりである。

 この戦いは、謙信にとって、武田氏の日本海進出への野望を挫くためのものである側面もあったが、第一義的には、おのれを頼ってきた信濃諸氏のための「義戦」であった。つまり、戦勝そのものが目的であり、信玄のような領土的野心はない。


 陣中、謙信は琵琶を奏で、漢詩をつくり、死の一カ月前、「四十九年一睡の夢、一期の栄華一盃いっぱいの酒」との辞世を遺し、この世を去った。詩人の魂を抱えた謙信にとって、戦さは毘沙門天の神託であり、おのれの美学を注ぎ込む芸術であった。


 なお、一言申し添えてくが、謙信や景勝のみが衆道を好んだというわけではない。その道を嗜むこと、信玄、信長、家康らも然りである(女好きの秀吉除く)。この室町末期は、衆道趣味が武将の嗜みとして頂点に達した観のある時代であった。

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