第176話 上杉家への使者―1

 昌幸が眉をひそめた。

「で、いかなる手を打ったと申すか」

 幸村が申し訳なさそうに頭を掻いた。

「申し遅れて相すみませぬが、実は、お師匠さまが越後へと……」

「なんと!はや、景勝公のもとへ参られたと申すか」


 幸村のいう「お師匠さま」とは、真田家の菩提寺・真田山長谷寺の海翁かいせん和尚をさす。

 海翁和尚は、前にも述べたが幸村の幼少期の教育係であり、幸村はこの海翁から漢詩・漢文などの文事を学んだ。とりわけ、この和尚による『太平記』の講釈は、幼い幸村を魅了したものである。


 上杉家の母衣ほろ武者であった海翁は、合戦で右腕を失った後、出家に至ったという経歴をもつ。

 海野佐馬充さまのじょう幸光という俗名から推しはかるに、真田氏と同様、名門滋野氏の後裔であり、その血縁で長谷寺の住持となったのであろう。


 さて、この和尚、いずこからか真田家の窮状を聞きつけるや、

「この愚禿ぐとくにお任せあれ」

 と、幸村に告げ、色褪せた墨染めに、破れ網代あじろ傘という、いつもの托鉢姿で飄然ひょうぜんと越後へと旅立ったのである。

 道中の用心か、腰に大脇差を帯びているのが、仏僧らしからぬ行装ではあった。


 ――それから十日後のこと。

 海翁の姿は、上田城の北櫓の一隅にあった。越後の春日山城に単身赴き、旧主である上杉景勝にえっして帰ってきたのだ。


「海翁和尚、越後よりご帰還」

 この報に、真田家当主の昌幸以下、幸村、望月六郎、矢沢三十郎頼康、さらに真田家の主だった重臣らが、続々と北櫓に集まり、海翁を取り巻いた。

 無論、皆の関心は「果たして上杉景勝公は、真田に味方してくれるか、否か」に尽きる。

 越後へと赴き、帰ってきた海翁の首尾を聞くため、一同、固唾を飲んで海翁の報告を待った。

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