第174話 敵の敵は味方―1

 徳川、北条の動きは、草の者らにより、逐一上田城の昌幸の耳に入った。情勢は風雲急を告げていた。

「いやはや、徳川が上田攻め、北条は沼田攻めを企てておるとか。しかも、双方、大軍という。此度ばかりは、あやうい。わしもこうじ果てたわ」

 と、昌幸が珍しく弱音を吐く。


 この日、昌幸は幸村を相手に碁を打っていた。場所は風通しのよい本丸南櫓である。時折、櫓の下の尼ヶ淵から涼風が吹き上げてきた。

 この頃、すっかり傷の癒えた昌幸は、着物の胸元をくつろげ、風を入れている。その胸に賊から受けた傷痕きずあとがのぞく。


 幸村は碁笥ごけの中の那智黒を指でまさぐりながら、「困じ果てたわ」とぼやく父の顔をチラリと窺った。

 案の定であった。

 その目元にかすかな笑みがある。昌幸が人を試すときに、ふと覗かせる悪戯いたずらっぽい笑みであった。


 果たせるかな、昌幸は碁盤に白を置きつつ、次の言葉を独り言のようにつぶやいた。

「さて、次の一手、いかが打つべきであろう。北条と徳川に一度に責められては身がもたぬわ」

 幸村は昌幸の手筋を見透しつつも、わざと眉根を寄せて思案顔をつくった。

 昌幸が返答を催促する。

「さて、さて」


 幸村は盤上をみつめたまま、昌幸をらし、その後、おもむろに口を開いた。

「敵の敵は味方とか」

「ほう。徳川、北条の共通の敵とは……?」

 昌幸がニヤリとした顔で、幸村の表情を窺っている。

 幸村はそんな視線などそしらぬふりで盤上に黒をパチリと置き、静かに応えた。

「まずもって越後の上杉家。景勝公のうしろには、秀吉公がおられます」


 この時期、上杉景勝は、羽柴秀吉と誼を通じていた。秀吉は紀州、四国を平定し、朝廷より関白宣下を受けていた。さらに翌年の天正十四年(1586)には、豊臣姓を賜って太政大臣に進み、位人臣をきわめて天下人に成りあがっていた。


 昌幸は盤上を俯瞰しつつ、幸村の返した一手を見た。大局観をもって黒がじりじりと迫ってきていた。

「ほう、やるのう」

 昌幸は胸のうちで感嘆した。




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