第173話 絶体絶命の窮地

 徳川、何するものぞ――。

 二度も刺客を送られた真田昌幸は、怒り心頭に発し、家康に書状を送った。

「沼田の地は、そもそもわれら真田の所領。むざむざ北条づれに渡す義理も道理もござらぬ」

 徹底抗戦やむなしの構えである。

 しかし、傲慢な家康にとって、真田方の激しい反発は意外であった。

 ――どうせ恐れをなして、わが意に従うであろう。

 と、をくくっていただけに、耳を疑う事態となったのだ。


 真田の所領は、上田や沼田などを合わせても、せいぜい十万石に過ぎない。総兵力も二千五百人前後である。

 ところが、この時期、家康は駿河、三河、遠江とおとうみ、甲斐、南信濃の5ヶ国、百五十万石の太守に成りあがっていた。力の差は歴然だ。

 その驕りが家康をして、

「真田の山猿がわれに叛くとは笑止千万。目にもの見せてやるわ!」

 と言わしめ、ただちに真田討伐を決意した。


 前年、家康は小牧・長久手の戦いで一万五千余の兵をもって八万余の秀吉軍に痛撃を与えた。これにより、野戦の名将として家康の武名は天下に轟いたが、秀吉に隙を見せるわけにはいかない。いつ背後を衝かれるか、しれたものではないのだ。

 天正十二年七月、家康は秀吉の来攻に備えるべく、居城を遠江の浜松城から駿河の駿府城に移した。備えを固めるためといえば聞こえはよいが、本国の三河からさらに東へ退く形となった。家康がどれほと秀吉の力を恐れ、警戒していたかを理解できる一事といえよう。


 この駿河を拠点に、家康は上田攻めを敢行することになる。


 ほどなくして開かれた軍議の結果、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ちかよし、柴田康忠、岡部長盛ながもりらを将とする軍勢七千余の陣立てをもって遠征軍となすことに決した。

 家康が同盟相手の北条氏直に真田攻めを報告したのは言うまでもない。

 氏直は沼田攻略の好機到来と意気込み、なんと前回を倍する二万余の大軍を編制し、「今度こそ」と雪辱を期した。半年前の敗戦がよほどに悔しかったのか、とてつもない軍勢である。


 前門の虎、後門の狼。

 昌幸は絶体絶命の窮地に立たされた。

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