第171話 再度の刺客―1

 季節は卯の花月に移った。

 陰暦四月は、もはや初夏である。信濃の山々の樹々が緑風にそよぐ頃、幸村らが沼田の陣から凱旋してきた。

 陽気があがるにつれて、昌幸の容体は目に見えて回復し、やがて床離れに至った。

 この頃、家康は使者を上田城に送ってきた。用件は聞かずとも分かっている。

 果たせるかな、使者は「北条に沼田城を明け渡すべし」と、家康の命を伝えてきたのであった。が、昌幸は聞き流した。


 家康としては、使者を上田に遣わすことにより、おのれの命令を無視しつづける昌幸に、最後通牒つうちょうを突き付けたつもりであった。もはや我慢も限界。このままでは、かねて北条氏直と結んだ講和の約定を果たせない。


 徳川・北条の両者が取り交わした和睦の骨子は、家康が甲州と信州を、そして氏直が沼田を含む上州をそれぞれ領有するというものである。

 家康の腹の中には、この北条との和睦により攻守同盟を締結し、背後からの脅威を除いた後、秀吉との対峙に専念するという戦略があった。

 しかし、北条からは、

「いまだ沼田城をお引き渡しいただいておらぬ。いつになったら、約定を果たされる

おつもりか」

 と、やいのやいのの催促である。


 家康は煩悶し、苛立ちはますますつのっていった。

 今ここで、関東二百四十万石を領する大大名、北条家にへそを曲げられ、盟約が反古ほごになっては、対秀吉戦略が画餅がべいに帰すことになる。

 しびれを切らせた家康は、服部半蔵に問うた。

「例の件、信濃に潜入させた忍びの者から、報告は届いておるか」

「ハッ」

「申せ」

「上田の西に、室賀むろが城という城がございます。と申しましても、山砦程度の小城ではございますが……」

「うむ」

「その城の主、室賀正武なる土豪が、従前から真田に対して意を含み、できれば上田の地を乗っ取りたいと敵愾心を燃やしておる様子とか」

「では、そやつを使って、昌幸を討ち取るべし。どうやって討ち取るかは、半蔵、そちに任せる」

「ハッ」

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