第165話 火草の帰還

 根雪の残る信濃の野に、蕗の薹が顔をのぞかせはじめた。

 そうした小春日和の某日、火草が沼田の陣の戦況を伝えるべく、上田に独り帰還してきた。

 無論、火草が真っ先に向かったのは、本丸の臥床に横たわる昌幸の枕辺であった。

 火草は昌幸に拝謁し、沼田をめぐる北条との合戦について、こまごまと報告し、次に殿城の矢沢城に急ぎ向かった。

 佐江姫と接見するためである。


 上田の南方、殿城へと走る火草の衣服は、藍染め木綿の筒袖、黒革の四幅袴、脛巾といういつもながらの姿である。が、その衣服は薄汚れ、布で後ろに束ねた総髪も土埃りにまみれている。

 上州から残雪の峠を越え、吾妻渓谷の曲がりくねった細い山道を駆け抜け、疲れれぱ森や岩陰に伏し、なりふり構わず上田に帰還してきたのだ。


 佐江は火草に会った瞬間、それらのことをすべて察し、いたわりの声をかけた。

 その声に、火草が恥じらう。

「このような汚い恰好で参上し、申し訳ございませぬ」

 火草はそう言って、佐江姫と目を合わせた。その火草の大きな黒瞳くろめに、濃い疲労の色がうかがえる。

「疲れたであろう。当分、この矢沢の城でやすまれるがよい」

「ありがとうございます。それより姫さま、ご安心めされませ。お父上の頼綱さまをはじめ、源次郎さま、さらに皆々さまご無事におわすばかりか、敵を見事に退けましたぞ」


 そのとき、佐江の双眸に明るい色が灯った。昌幸の襲撃事件以来、塞ぎがちであった胸のうちが晴れるかのような朗報である。

 訊けば、沼田城を守る真田軍は、城外に出丸を築き、北条氏邦を総大将とする一万余の軍勢を迎え撃ったという。

 対する城方の真田軍は、わずか二千余。城外の出丸には、幸村率いる真田忍び百名余に加え、これに陣借りの浪人などで構成された部隊が入った。

 その出丸を北条三つうろこ家紋の旗指物がひしひしと攻め寄せ、取り囲んだ。

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