第147話 本能寺の変―4

 火草が驚いて海野六郎に訊き返す。

「なんと!犬に右府公(信長)の御首級みしるしを食らわしたとな。それは真実まことか」

「ふん。らちもないことを申すな。このわしが嘘を言って何になる。これを見よ!」


 六郎が幸村ら一同の目の前に高々と掲げたもの。それは、目にも綾なる金拵えの脇差であった。

「信長の腹に突き刺さっていた薬研やげん藤四郎よ」

 それは、京粟田口あわたぐち藤四郎吉光の銘刀である。信長は、この薬研藤四郎を肌身離さず所持していたが、本能寺の変で焼失したとされ、今も行方不明になっている。


 さて、野犬が先を争って信長の首に食らいついた頃――。

 未だ余燼よじんくすぶる本能寺の残骸の中を、一人の武将が幽鬼のごとくさまよっていた。信長を弑逆しいぎゃくした明智光秀である。


 光秀は神経質そうな金切り声を立てて、幾度も喚いた。

「さがせ、探せ。右府さまのご遺骸を探し出すのじゃ!」

「見つかるまで探せ。探し出して、都大路にむくろを晒すのじゃ!」

 

 絶対君主の信長に平蜘蛛ひらぐものごとく這いつくばって仕え、破格の出世を遂げてきた光秀である。自らなした裏切り行為とはいえ、現実うつつに起きた眼前の出来事があまりにも空怖ろしい。

 ――もしや、討ち漏らしたか。

 ――万一、上さまが生きていたら……。

 そうした不安や疑念が脳裏をよぎるだけで、光秀はくらくらと眩暈めまいがした。おのれの五体が第六天魔王に切り裂かれる白昼夢をまのあたりにした。


 信長の亡骸をこの目で見るまでは決して安心できない。光秀はわなわなと身をふるわせつつ、士卒らに向かって再び叫んだ。

「右府さまのご遺骸はまだ見つからぬか!」

「御首級を探せ。見つかるまで探すのじゃ!」


 なお、『信長記』には、このときの状況が「御首ヲ求ケレド更ニ見エザリケレバ、光秀深クあやしミ、士卒に命ジテ、事外ことのほかさがサセケドモ、何トナラセたまヒケン、骸骨と思ボシキサヘ見へザリツル」と記されている。

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