第146話 本能寺の変―3

 眼前に現れた海野六郎に、信長が唇を歪める。

「下郎、予の首を打ち、手柄にせよ。腹を切ったまではよいが、なかなか死ねぬわ」

「何を申すか。うぬはおごり高ぶり自ら第六天魔王と称するではないか。その名乗りに恥じることなく、潔く首を掻き切り、さっさと冥府へ旅立つがよい」

「ふん、この手を見よ」


 見れば、信長の両の手の五指はほぼ失せていた。おそらく小姓らを陣頭指揮して最後まで戦ったのであろう。右肘みぎひじたりからも血を滴らせている。これでは、腹に脇差を突き立てるのが関の山であったやもしれぬ。


 六郎はさすがに哀れを覚て、佩刀を抜き放つや、絶叫した。

「武田遺臣、海野六郎、参る!」

 瞬後――。

 信長の首は一筋の赤いみおを引いて、火炎に包まれた天井まで飛んだかと思うと、六郎の前に落ちて、ゴロンと転がった。


 瞬刻――。

 事をなし終えた六郎は、腑抜けたように炎の中に佇立した。が、すてに四辺は焦熱地獄である。大きな音を立てて梁が焼け落ちた。肌が灼けるように痛い。髪がチリチリと焦げる。

「南無三!これはたまらぬ」

 六郎は信長の首を練絹の寝衣で包み、紅蓮の炎に包まれた本能寺から抜け出たのである。


 ここまで語り終えた六郎に、火草が訊く。

「それで、右府公(信長)の御首級は、どうなされたのじゃ」

 雲間から朝日が射していた。

 六郎がまぶしげに空を見上げた。

「あれは、三条河原の辺りであったかと思う。ふと、周りを見れば、わしは川べりの石の上に腰をおろしておった。で、そのとき、なぜか無性におかしくなった。なにゆえ、こんな重い信長の首を持って、ここまで来たのか。わし自身にも説明がつかぬ」


「確かにのう」

 うなずく火草に、六郎がふふっと片頬笑んだ。

「何かのうなり声がして、見れば、野犬がわしの周りを取り囲んでおった。血の匂いを嗅ぎつけたのであろうよ。わしは、疲れておった。で、そやつらを追い払うのも面倒と考え、信長の首を投げ与えたのよ」

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