第145話 本能寺の変―2

 本能寺の奥から女たちの悲鳴があがった。

 小姓とおぼしき若い男の声が響く。

惟任これとう日向守どの、ご謀叛なり」


 このとき、寝ぼけ眼の海野六郎は、ようやく気がついた。

「すわ!光秀が信長を裏切ったのか」

 直後、本能寺の門が破られ、雑兵どもが喊声をあげて雪崩れこんできた。

 これに森蘭丸以下の小姓らが「ござんなれ」と応戦する。しかし、衆寡敵せず、たちまち血だるまとなり、そこかしこにたおれ伏す。


 境内には坊主がおろおろと逃げ惑う。裸同然の若い女が、髪をふり乱し、狂ったように六郎の眼前を駆け抜けた。この混乱に乗じ、六郎は本能寺の奥御殿へと足を踏み入れた。憎き仇、信長の姿を探すためである。


 走りながら六郎は弓を射た。

 おのれに刃を向ける者は誰であれ、無防備な顔を、首を撃ち抜き、走り抜けた。気がつけば、本能寺はすでに火に包まれていた。垂木たるき破風はふ、唐窓など、いたるところを赤い炎の舌がちろちろと舐めている。

 

 ――ええいっ、猶予はできぬ。

 六郎は弓矢を投げ捨て、先へと急いだ。

 おのれに向かって「何奴!」と襲いかかる雑兵どもの槍、白刃を右、左にかわし、斬り抜けつつ、御殿内を奥へ奥へと進んだ。

 すると、漂う煙の中に座す男の孤影がある。矢傷か、それとも槍傷か、白い練絹の寝衣の背や肩に朱の色が浮かんでいる。


 六郎が背後から用心深く近寄るや、男はうめくように独り言をつぶやいていた。否、かすかな声で謡っているのだ。

「人間五十年、下天のうちをくらぶれぱ、夢幻のごとくなり……一度生をけ、滅せぬもののあるべきか」

 幸若舞『敦盛』の一節である。


「信長なるか」

 六郎は男の前に出て、眼を合わせた。

 癇癖かんぺきの強そうな細面の面貌かお、高い鼻梁、上唇の薄い髭。間違いない、信長だ。腹に脇差が突き刺さっている。

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