第139話 夜叉姫の戦い―2

 昌幸が膝を屈するや、佐江は花のような唇をほころばせた。

「思い返していただき、かたじけのうございまする」


 そのとき、昌幸は叔父頼綱の視線をひしひしと感じていた。

 ――やはり、叔父御は源次郎びいきだけに、わが娘をあやつの嫁にしたかったのだ。さもなければ、佐江姫のこのようなゴリ押しともいえる我儘わがままを黙って許すはずがないではないか。


 佐江の落ち着きはらった声がする。

「で、ありますれば、この際、婚儀の日取りを決めていただきとうございます。できるだけ早いに越したことはございませんが……」

 頼綱の巨躯がやや前のめりになった。無言の圧である。


 しかし、昌幸とて真田家当主としての意地がある。もっともらしい言葉で最後の抵抗を試みた。

「うむ。すぐにも祝言をと言いたいところでござるが、今は城普請が焦眉しょうびの急。急がねば、いつ何時、敵が押し寄せてくるとも限らぬ。新府城の二の舞だけは避けとうござるでな」


 新府城とは、武田勝頼が織田の大軍を迎え撃つために、韮崎の断崖上に縄張りした巨大な城砦である。しかし、普請途中で味方の裏切りや織田軍の来攻があったため、結局、役立たずに終わった。あのてつだけは踏みたくない。それは、真田家の武将なら誰しもの思いであろう。


 実際、上田城の普請に取りかかって以来、たびたび上杉景勝の軍が、上田の里を眼科にのぞむ虚空山こくうざん城に籠り、不穏な動きを見せていた。牽制である。


「では、輿入れの日取りはいつ頃と考えてよろしいでしょうか」

 佐江の問いに、昌幸は思わず頼綱の顔色をうかがいつつ応じた。

「遅くとも、来年の秋冬には……それまでには、二の丸なども完成しておるはず。のう叔父御」

 その昌幸の言葉に、事態の推移を見守っていた頼綱が深々と低頭した。

「まっことありがたいお計らい。この薩摩、ご宗家には幾重にも御礼申しあげる」


 夜叉姫は戦いに勝ったのである。

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