第138話 夜叉姫の戦い―1

 さて、冒頭に述べた幸村の元服式が執り行われたのは、上田城本丸南櫓完成直後のことであった。

 佐江はこの元服式の日を一日千秋の思いで待っていた。

 というのも、

「姫と源次郎の縁組みは、元服式の後でということで、いかがであろう」

 という昌幸の約束を信じていたからである。


 ――しかしながら、大殿は油断ならぬお方。なんのかんのと理由をつけて、反古ほごにされるやもしれぬ。

 胸のうちに、こうしたばくたる不安はあったが、佐江の一途な気持ちに迷いはない。思い込んだら命がけである。

 しかも、心強いことに幸村の元服式は父頼綱が烏帽子親をつとめるのだ。


 いかに老獪ろうかいな昌幸とて、まさか頼綱の目の前で「ならぬ、ならぬ」と正面きって異を唱えることはできまいと、佐江はいた。

 ――これは女の戦さ。ぜがひとも勝たねばならぬ。


 意を決した佐江は、元服祝いの無礼講で昌幸に約束の履行を迫った――ここまでは、あらかた既述のとおりであるが、改めて読者の方々に思い起こしていただくため、冒頭のシーンを再述させていただく。


 夜叉姫の物言いは、直截的で鋭い。

「さて大殿さま。私めは鉄漿かね付の儀を済ませ、源次郎さまは今日ここにめでたく元服なさいました。つきましては、私めと源次郎さまの婚儀のお約定、今こそ叶えていただきとうございます」


 案の定、昌幸はしらばっくれた。

「わしが姫に……そのような約束を……はて、とんと思い出せぬわ」

 と言いつつも、昌幸の脳裏に二年前の出来事が去来した。あの節句の日、この佐江姫の鉄漿付の折に、確かに約束したことではある。たかが小娘の一時の熱情。そう侮って、約束したものの、二年の歳月が経過しても、まだこの姫の熱情は失われていなかったのだ!


 しかも、その鉄漿付の儀を執り行ったのは、昌幸がこの世でもっとも苦手とする正室、山之手殿であった。

 ――そうか、この小娘、あの日のことを忘れていなかったのか。忘れておれば、源次郎の嫁は近隣の大名、小名らの娘から選ぼうと思ったに……。

 昌幸は軽いお驚きとともに、佐江の怜悧にかがやく双眸を見つめた。


「大殿さま。思い出せませぬか」

「ふむ。わしも耄碌もうろくしたのか、申し訳ないが、一向に思い出せぬ」

「ふふっ。何をおっしゃられますか。耄碌するようなご年齢ではございませぬ」

 佐江は頬に冷笑を浮かべ、最後にこうを刺したのであった。

「では、この場での大殿さまの申されよう、京の御前さまにもお聞きいただきたく存じまする。これより、お風邪の見舞いかたがた奥にお伺いし、お耳に入れてまいりましょう」


 この佐江の言葉に、昌幸は内心激しく動揺した。

 あの取り澄ました権高な正室だけには、かかわりたくない。下手へたに口をきけば、どのような厄災が身に及ぶかしれたものではないのだ。


 昌幸はおのれの敗北を認めた。

 照れくさそうに頭を掻き、ごまかし笑いを浮かべた。

「おおっ。姫、そう言えば思い出したわ。ハハッ。あれか、あのことか。ハハッ。わしとしたことが、忙しさのあまり、迂闊うかつにも忘れておったわ。いやはや面目ない。お許しあれ」


 さらには、佐江の冷ややかな視線に気がひけたのであろうか、

「いかさま左様であった。思い起こせば、二年前の節句の日、元服の後ならばと、約定したのであったな。にしても、源次郎は果報者よ。元服式に次いで、かくも美しき姫をめとることになるとは、まっことめでたい」

 と、追従じみた世辞までろうするではないか。


 佐江ここぞとばかりに追撃した。女の合戦は容赦ない。

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