第121話 昌幸の策略―3

 矢沢頼綱は、六文銭の大紋を打った素襖すおうの袖を蝶のごとく広げ、家康に向き直った。

「して、三河守どのは、われら真田家の働きをいかが考えでござろうか。徳川家の橋頭堡たる真田家の値打ち、いかばかりとお考えでござろうか」

 

 このとき頼綱、六十七歳。太い鼻梁の上にたくわえた口髭は、年相応に白髪まじりだが、背筋がピンと伸びた総身から尋常ならざる気迫が漂う。

 吊り上がった眉の下に、炯々けいけいとかがやく両眼、撥ね上がった口尻くちじり、上端のとがった大きな耳――その顔相は、老いても牙を剥き、今にも猛り立ちそうな猛虎を思わせる。


 異相の頼綱にググッと睨み据えられて、一瞬、家康は怯みの色を浮かべたが、しかし、家康とて幾度もの修羅場をくぐり抜けてきた武将である。

 乾いた喉に茶を一気に流し込み、思い切ったように反論した。

「真田家当主の安房守どのは、裏切りを常とする表裏比興の者とか。上田城を徳川家の城として普請したはよいが、後で上杉の城になること、なきにしもあらず。とならば、われら徳川家は笑いものになること必定。その点も考えあわせねばならぬゆえ、城普請に対するご返答は、しばし猶予されたし」


 これを聞いた頼綱が呵々と大笑するや、本多正信がその非をそしった。

「薩摩守どの。何がおかしいか。わが殿に対して無礼であろう。お控えあるべし」

 正信の叱声など歯牙にもかけず、頼綱が大きな口をあけて、さらに笑いながら言う。

「グハハッ。三河守どのも、面白きことを申されるものよ。われら真田の兵はわずか二千余。それに比して、徳川方の動員兵力は数万。万一、われらが裏切っても、すぐ上田の城など取り戻せましょうぞ。それとも、われらが上杉にくみすることが、それほどおそろしゅうござるのか。今からあれこれ取りこし苦労をされても、つまりませぬぞ」


 この人もなげな言い様に、家康、正信主従は怒るのも忘れて、大笑いする頼綱の顔を茫然と見つめた。

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