第112話 乾坤一擲―3

 信長は、人の言うことなど聞いていない。

 性急に昌幸手土産の黒葦毛へと向かい、その馬体をすみずみまででた。信長の酷薄そうな薄い唇が心なしかほころんでいる。


 信長が黒葦毛の鼻を撫でながら、昌幸に訊く。

「安房守とやら。そのほう、聞いた話によれば、なかなかの忠義者とか」

 武田勝頼に岩櫃いわびつ城へ落ち延びるよう勧めた昌幸の名は、信長の耳に入っていたのだ。 

「ははっ、身に余るお言葉。かたじけのう存じまする」

 昌幸はさらに身を低くした。


 その身に再び甲高い声が覆いかぶさる。

おもてを上げてみよ」

 しかし、昌幸はじっとひれ伏していた。

 この時代は、貴人から面を上げる許しが出ても、作法として一回目は上げてはならない。昌幸は、そのまま身じろぎもせず、二回目の許しを待った。


 森蘭丸の声がした。

「上さまの仰せである。面を上げよ」

 昌幸がゆっくりと面を上げた。目は伏せたままである。


「ふむ。なるほど。噂にたがわぬ異相なり。ひと癖あるげに見ゆるが、そのほう、役に立ちそうな面魂つらだましいをしておる。われに仕えるか」

「ははっ」

「で、あるか。ならば、将監しょうげんの与力となるがよい」

 将監とは、信長の重臣滝川左近将監一益かずますのことである。一益は武田攻めの功により、実質的に関東管領ともいうべき東国警固役に抜擢されていた。


 かくして昌幸は一命を賭した勝負をものにした。本領を安堵されたのである。

 しかしながら、この2カ月後、運命はさらに暗転する。信長が本能寺の変で横死するのだ。

 無論、この時点では、そのような青天の霹靂に等しい事件が起こるとは、誰しも思いもしないし、予想できるはずもない。

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