第107話 片手千人斬り

 天目山麓の田野の戦いにおいては、特筆すべき武者がいる。

 余談とはなるが、その武者を紹介しておこう。


 勝頼一行が田野の地に追い詰められようとしたとき、一人の武者が追手の兵に敢然と立ち向かった。

 家臣の土屋惣蔵昌恒そうぞうまさつねである。

 惣蔵昌恒は、崖際の狭い道を辿って逃げ延びる主君勝頼の姿を見送った後、この断崖上の狭小な道に一人陣取った。


 そして滝川一益の兵を前に高らかに名乗る。

「われこそは、武田二十四将の一人と数えられた土屋右衛門昌続まさつぐの弟なり。13歳の初陣で敵将の御首級みしるしを頂戴し、これまで幾多の戦場を馳駆して参ったが、一度たりとも遅れを取らず、卑怯未練の振舞いなし。いまこそ武田家よりこうむりし代々の重恩に報いらん。いざ、参れ!」


「小癪な!」

「その増上慢の首、刎ねてくれよう!」

 多勢をたのみに、崖上にわらわらと攻め上がってくる敵勢を見て、惣蔵昌恒は呵々かかと大笑した。今こそ、兄昌続に負けぬ武勲を立て、揺るぎない武名を千載せんざいに残すとき。名を惜しむ武者にとって、こんなに晴れがましい舞台があろうか。


 惣蔵昌恒は崖上から弓弦ゆんづるをビュンと唸らせた。射られた敵が崖下の川へ次々に落下する。敵兵を二十人も射殺したとき、矢が尽きた。

 すると、惣蔵は、今度は崖っぷちの狭い道に陣取り、断崖に這うつるを左手でつかみ、右手に刀を持って次々に斬っては、崖下の川へと蹴落けおとした。これが後世に伝えられるところの「土屋昌恒片手千人斬り」である。


 崖下の川は、惣蔵に斬られた武士たちの血で3日間も朱に染まり、三日血川(みっかちがわ)と呼ばれた。


 惣蔵昌恒は敵を一手に引き受け、勝頼一行の自刃の時間をかせいだのである。目的を果たした惣蔵は、田野の鳥居畑に陣を構えていた勝頼のもとに引き返した。主君のそばで死にたかったのだ。このとき27歳であったという。

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