第101話 鉄漿付の儀―3

 真田昌幸が狼狽した声を出す。

「ひっ、姫、今なんと申されたかの」

「ハァ、どうやら大殿さまは、お酒に酔われ、お耳が羽化登仙うかとうせんのご様子。では、再度、申し上げさせていただきます。私めの唯一の望みは、弁丸さまこと源次郎さまの嫁御になることでございます」


 昌幸が驚愕の目をみはる。

 昌幸の老母恭雲院と佐江の母諏訪御前が目を見交わした。この二人は昔から仲睦まじい。


 昌幸が頭を掻いた。

 まさに寝耳に水である。


 昌幸としては、幸村の嫁は、できれば越後の上杉氏、関東の北条氏といった隣国の有力大名や、それら重臣の息女から迎えたいと思っていた。

 武田家の前途にかげりが差し始めた昨今、穴山氏や木曾氏らの離反など不吉な噂もささやかれはじめている。


一寸先は闇。先々のことを考えれば、あたうる限り、生き残りの布石は打っておかなければならない。有力大名らと縁組をして、よしみを結んでおくことは、真田一族の命綱となりうるのだ。


 とはいえ、この佐江の望みをあからさまに拒絶するわけにはいかない。相手は一族一門の筆頭であり、昌幸が少年時代から頭の上がらない偉大な叔父、矢沢薩摩守頼綱の愛娘なのである。

 万一、この目の前の佐江姫が、頼綱と口裏を合わせているとすれば……。


 昌幸は佐江の本意を探るように、小娘と視線を合わせたが、その切れ長の双眸ひとみからは怜悧な輝きがまっすぐ放たれていた。それは、女としての不退転の決意をはらんだ眼眸まなざしであった。


 ――どうやられ言ではないと思える。

 昌幸は軽い眩暈めまいを覚えつつ、佐江の母である諏訪御前に助け舟を求めようと目配せを送った。

 ところが、なんたることか。

 諏訪御前は、打掛うちかけたもとを口に当てて、

「ほほほっ」

 と笑い、事の成り行きを楽しむかのような素振そぶりを見せたのである。

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