第99話 鉄漿付の儀―1

 さて、話は太郎山へと戻る。


 佐江は幸村と山頂への道を辿りながら、じらいの言葉を口にした。

「昨日、京の御前さまに鉄漿親かねおやとなっていただき、お歯黒染めを……これにて、私めは晴れて嫁げる身となりました」


 幸村が佐江にむかって頬笑ほほえみかける。

「それは重畳ちょうじょう

 この時代、うら若き乙女にとって、お歯黒染めは男子の元服に相当する。鉄漿付かねつけの儀式を済ませれば、もはや一人前の女であり、他家への輿入れが可能となる。


「その鉄漿付の儀には、私めの母者ははじゃも立ち合い、大殿さまからお優しい言葉を賜りました」

「ほう、わが父上は、なんと仰せられましたか」

「姫に祝いの品を進ぜよう。なんなりと遠慮なく申されよ、と」

「それは、ますますもって重畳。で、佐江どのは、どのようにお答えを?」

「ふふっ。そのことにつきましては、まだ内緒ということで……」

「左様か……」


 行く手に、一本の山桜が清楚な趣きを見せて咲いている。

「まだ内緒」

 と返した佐江の頬に、心なしか山桜のような薄紅色がさしていた。


 この日の前日――弥生の節句に、佐江の鉄漿付の儀が執り行われた。

 韮崎の地からたまたま帰還していた真田昌幸も、佐江のお歯黒染めを見守った。

 その後は、当主の昌幸、正室の山之手殿を上座に据え、昌幸の老母恭雲院、佐江の母諏訪すわ御前、乳母瀧野、幸村の姉於国おくにこと村松殿、山之手殿の侍女ら、真田屋敷の主だった女子おなご衆が勢揃いの上、祝いの宴となった。


 祝盃をグビグビとあおり、昌幸は上機嫌である。佐江の母諏訪御前の手前、日頃は口うるさい妻の山之手殿も神妙にかしこまっている。

 昌幸は調子に乗り、斗酒としゅなお辞せずと意地ぎたなく呑みつづけた。


 この日、佐江は、胸のうちにひとつの企みを持って、祝宴にのぞんでいたが、酩酊ぎみの昌幸はおろか、祝いの膳をつつく女子衆の誰一人として、そのようなことを知ろうはずもない。

 

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