第96話 風雲急なり―3

 この頃、武田勝頼は、東西から挟撃され、その心中に怯懦きょうだの念が芽生えはじめていた。長篠の合戦で敗退するまでは、戦鬼かと陰でそしられるほどの気魄に満ちていたというのに、その勝頼はもういない。かつての勝頼はどこにもいないのだ。


 保身の態勢に入った人間が、おのずと眼力を失うのは世の常である。


 勝頼は高坂弾正の「穴山信君の軍令違反、許しがたし。まして敵に背を見せるとは言語道断。切腹を申しつけるべし」という進言に、愚かにも異を唱えた。

「あの者は、武田家親族としては筆頭。もし処断すれば、家中の動揺や分裂を招くであろう」

 

 その首がつながった穴山信君が、勝頼の耳に親切ごかしの助言を吹き込む。

「もはや猶予はなりませぬ。急ぎ、要害堅固な城をつくり、織田・徳川連合軍を迎え撃ちましょうぞ」

 これに勝頼がうなずくや、信君がさらに言葉を重ねた。

「韮崎の地に、城を普請してはいかが」

「ふむ」


 韮崎七里岩と称されるように、その地は岩壁がそそり立つ峨々ががたる断崖上にあり、まさに天険の要害であった。

 ここに、勝頼は真田昌幸に命じて、武田家史上最大の城、新府城を築かせていたのである。


『甲陽軍鑑』に、信玄の言葉として「人は城、人は石垣、人は堀」とある。すなわち英雄信玄の時代には、四方にその武威がかがやき、大規模な城郭など必要なかったということを示しているのだ。


 韮崎の天険の地に、徐々に全貌を現しつつある新府城。その巨大な影に、家臣の誰もが勝頼の怯懦と、武田家の置かれた苦境を見た。

 偉大な父信玄と常に比べられ、その幻影に苦しめられ続けてきた勝頼の悲劇はここにある。

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