第87話 幸村と信幸―1

 さて、真田屋敷へと話は戻る。


 佐江の胸中にわだかまる不安をよそに、真田郷での歳月は平穏無事に過ぎていった。

 山之手殿は、くりやで龍野が下女頭のように目を光らせ、佐江が幸村の膳をいちいち毒見しているこを知り、

「これは迂闊うかつなことはできぬ」

 と思い至った。


 もし、佐江が万一、毒で死ぬようなことがあれば、怒髪天を衝くばかりに怒り狂った矢沢頼綱によって、その非を糾弾され、最悪、自分の細首は胴体から瞬時に離れるであろう。


 もはや毒飼いの手はない。

 そう考えた山之手殿は「ならば」と逆の手に出た。

 佐江の気をこうと、京の都から美しい小袖や帯を取り寄せ、懐柔するという小細工をろうしはじめたのである。


 山之手殿のこの手の平を返したような豹変ぶりに侍女らは、一様に驚き、目をみはった。

 しかも、ここ最近、気むずかしい山之手殿が、なぜか不気味なほどご機嫌うるわしいのだ。

 

 屋敷のあちこちで、それについて噂がささやかれた。

「なんでも、源三郎さまが元服されたそうじゃ」

「おおっ、甲斐の躑躅つつじヶ崎でおられる若さまがか!」

「そうとも。四郎勝頼さまの覚えがめでたいらしい」

「ふーむ。なるほどのう。それで、京の御前さまのご様子がいつになく……」


 源三郎とは、申すまでもなく山之手殿が産んだ子である。幼少の頃から、武田勝頼の嫡男信勝のぶかつに仕えていたが、この頃、勝頼から一子信勝とともに元服を許されていた。

 信幸といういみなは、信玄の一字を授かったものといわれる。

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