第84話 不吉な予感―4

 佐江がもっとも怖れたこと。

 それは毒飼いであった。

 山之手殿が下女に命じて、幸村の食事に毒を盛るやもしれぬと危惧したのである。


 当時、長男と嫡男は同一ではない。

 家督相続上は、たしかに正室のなした長男が、嫡男たりうる優位な位置にいたが、それも決定的な条件ではない。たとえ腹違いの庶子といえども、能力や当主の選択次第で跡継ぎの嫡男になり得るのである。


 山之手殿は当主昌幸の正室であり、源三郎という男児をもうけている。

 しかし、幸村の通り名は、源次郎という。幸村は庶子とはいえ、実は昌幸にとって長男であった。

 なぜ長男だのに、源次郎としたかには諸説あるが、長男は敵方に暗殺の標的とされたので、あえて次男坊のような名前をつけてカムフラージュしたという説に、筆者は軍配をあげる。


 少し話がそれたが、山之手殿はわが子源三郎を、なんとしても確実に真田家の世継ぎにしたかった。それには、幸村を亡き者にることがいちばん手っ取り早い。


 幸村に対する毒飼いを怖れた佐江は、真田屋敷の賄い場を龍野に手伝わせた。

 龍野は、佐江の意を受けて、厨で働く下女の料理手順に逐一、目を光らせた。

 次に、下女によって運ばれてきた膳は、口にする前、自分のものと幸村のものとを取り替え、毒見をした。

 舌に少しでもしびれを覚えれば、毒が盛られているのだ。


 幸村が困惑の色を浮かべて言う。

「佐江どの、いささかやり過ぎのように思われるが……」

「何を申されます。ここは敵地。万が一に備えること。それが常在戦場の心得にございまする」

「左様か」


 以後、幸村は佐江の振舞いに口をつぐんだ。

 もともと寡黙な上に、自己抑制の強い性格だったのである。

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