第82話 不吉な予感―2

 龍野の悲鳴につづき、下女があわてふためいて御殿の奥の間へと走った。

 佐江姫の母諏訪すわ御前に、ただならぬことを急報するためである。


「大変にございまする。姫さまがご自分の荷物をまとめて、お一人でどこへやら赴かれるご様子」

「なんと!」


 諏訪御前は佐江姫の居間に急いだ。すると、身のまわりの品を柳行李に詰め込んで、今にもどこへやら出かけようとしているではないか。

「はて、そなた、どこへ行かれるおつもりじゃ」

 上品な面差しにふさわしい、おおらかな口調で、諏訪御前は娘に問うた。


「弁丸さまのもとへ参りまする」

 佐江が眦に決意をにじませて応える。

 その娘の様子を見て、聡明な諏訪御前は、すべてをたちどころに悟った。

「左様か。真田屋敷に参られるか」

「はい」


 諏訪御前は前々から娘の一途な想いを知る。

 もはや、悍馬は走り出したのだ。この気性の激しい夜叉姫を誰も止められぬであろう。沼田の陣にいる良人おっとの頼綱には、事後報告とならざるを得ないが、ここは腹をくくるしかあるまい。


 諏訪御前はきっぱりとした口調で告げた。

「ならば、龍野を連れてゆきなされ。さもないと、お父上さまが心配なさいますゆえ」

「わかりました」


 かくして、佐江は愛馬残月の背に柳行李ふたつをくくりつけて、お目付け役の龍野とともに北の真田郷へと向かった。

 真田屋敷に参着するや、佐江は昌幸の老母恭雲院きょううんいんの前に真っ先に額づいた。恭雲院は、佐江のことを孫のように猫かわいがりしていた。


「しばらくご厄介になりまする。突然で申し訳ございませぬが……」

 と、頭を深々と下げる佐江に、恭雲院が慈愛の眼差しを向ける。

「おう、おうっ。佐江どの。好きなだけ、ここにおりなされ。ときどきは、わらわの話し相手にもなってたもれ」


 その様子に、真田屋敷の奥を取り仕切る山之手殿が柳眉を逆立てた。

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