第80話 余談少々―2

 忍びの術。

 それは、七世紀の天武天皇の頃、役行者えんのぎょうじゃ(役小角)によって、北信濃の戸隠山に修験道場が開かれ、その後、多くの山伏たちが荒行の末に山伏兵法を体得した。これが信濃における忍術のはじまりとされている。


 したがって、飛鳥時代以来の古流である戸隠流は、甲賀、伊賀の二流よりも起源は古く、忍術のルーツとされているのだ。平安時代末期、木曽義仲の家臣として活躍した仁科大助は、戸隠流の達人だったといわれている。


 時代が下り、鎌倉時代になると、戸隠近くの飯縄いいづな山には、荼枳だき二天を信仰する山伏らが、「飯縄いづなの法」という幻術、妖術を編み出した。

 竹筒の中の「管狐くだぎつね」を使って得る神通力は、戦国武将に篤く信奉され、それら飯縄使い祈祷師や呪術師は、戦さの吉凶などを占う占術師としても重要な役割を果たした。


 祈祷や呪術には効験があると信じられ、人智を越えた霊妙な力があると信じられていた迷信深い時代であった。当時の人々の9割9分以上が、霊怪幽魂れいかいゆうこん化身魍魎けしんもうりょうの存在を信じて疑わなかったと筆者は断言する。


 ちなみに、上杉謙信が愛用した兜の前立ては、風に乗った飯縄明神の像である。


 信濃の山伏や忍者らは、やがて真田家に組み込まれるようになり、城攻めや諜報活動に功をあらわした。

 余談ながら、真田家の定紋じょうもんとして有名な六文銭は、諸説あるが、真田三代の始祖幸隆が武田家に帰属した際、旗印として用いたのがはじまりとされている。


 ご存知のとおり、六文銭は三途さんずの川の渡し賃。すなわち身命しんめいを賭して戦う決意と覚悟を示した家紋である。

 死をも辞さぬ覚悟のゆえか、幸隆のからだには、25以上の刀創とうそう矢傷が数えられたという。ついでながら述べると、武田24将のうち、15人が戦死しており、自害・刑死3人、病死はわずか6人にすぎない。

 戦国の世の苛烈さが読み取れる数字ではあるまいか。



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る