第68話 お亀の方―3

 幸村はお亀の方の双眸を静かな眼差しで見つめ返した後、言葉を返した。

「わかり申した。此度のはなむけに頂戴したお言葉、わが胸にありがたく仕舞っておきまする」

「それでよい。ご健勝であられませ」


 お亀の方は満足気な笑みをたたえてうなずいた。

 暇乞いをする幸村を前にして、はじめて見せた笑顔であった。


 しかし、その笑顔もつらい別離に際して、長く持ちこたえるはずもなかった。

 お亀の方は良人おっと甚平との間に、ついに子をなし得なかった。

 若い側室を自ら良人にはべらせることにより、その借り腹でやっと跡継ぎを授かったのである。


 すなわち、石女うまずめの彼女にとって、幸村は赤子の頃より手塩にかけて育て上げたかけがえのない唯一の「わが子」であった。


 幸村は三十郎、筧十蔵とともに、根津家を辞した。

 門前に出てみると、根津家の一族郎党が居並んでいた。皆、「若」こと幸村との別れを惜しんでいるのだ。


 緋羅紗ひらしゃの袖なし陣羽織をまとった幸村は、門前につながれた白葦毛しろあしげの駿馬に打ちまたがった。

 一陣の風が、その袖なし羽織をひるがえす。

 先頭に立つ幸村が、「ハッ」と馬腹を蹴り、三十郎と浪人者がそれにつづいた。

 そのとき、であった。

「いざ、若の晴れの門出じゃ。弁丸さまのご出馬じゃ!」

 と、お亀の方が、その福々しい相貌を崩して絶叫し、狂おしくき崩れた。

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